篩分けてはならない
ミルダッドは私達に自分自身を篩い分けてはならない。
坩堝でありなさいという。
篩い分けるとは自分や他人を見る際に、自己自身を「私とは記憶なのだ」
とか、「あいつは自我丸出しだ」とか「私は潜在意識の記憶だ」「私は自我だ」
とか言わないで、自分自身を自我から真我まで包含している坩堝だとして正し
く自己を理解して正しく自己を見なさいと言っておられる。
では坩堝とは何だろうか?
それぞれの流派の違いによってかなりの言葉使いの違いがあるけれども私なりに
それを纏めてみたい。
ミルダッドの言う篩い分けているものとは、それはこの①の人格(記憶)であるが
通常、私達は他人を見ている場合でも、自分を見ている場合でも「私」というものを
篩い分けて、それを自分だとみているのだが、それを「私」というものを見る場合には
自分自身のことを篩い分けないで坩堝として、複合状態として見なさいと言っている。
自分自身を低位の自己・自我とか高位の自己・真我に分けてはならないと、その自己を
低次と高次に分けているのが思考だということであろう。
であるので、私やあなたとはこれらの複合している「坩堝」なのである。
以下は私が想像し考えている「坩堝」の中身である。
①この人格としての私
(ヒューレン博士はこれを潜在意識にある記憶の極先端の一部分と言っている)
(この記憶である人格の私とは、新たに入った脳の記憶によって形成されている記憶の
事、教育や環境や伝統によって汚染され、自分を何々国の或る人種だと思っている)
(脳の状態の才能とか、障害、又は脳の機能や状態を自分自身だと錯覚している)
②下丹田付近、太陽神経叢付近にある潜在意識の記憶を構成している人格群からなる
複数の私。
集合無意識の私、自我群の私 (ホ・オポノポノではこれを潜在意識の記憶と言っている)
無数のワサナ、想念形態、エレメンタルから構成されている。
③理性としての私
(ホ・オポノポノではこれを記憶に覆われている表面意識+潜在意識)と言っている)
この私の意識は時々、通常の人生でも知覚されることがあり、一般的には純粋理性、
高次の知性と表現されている。高次の思考即ち「鏡としての私」に近い意識の事で
あろう。
(輪廻転生の際に魂から放射されるコーザル体の部分として、新たに誕生した形成途中の
私、エレブナでいう未形成のサイコノエティック体のことで、前世での経験を継承している
私のこと、未形成の霊的身体であろうか
前世で習得した才能や、傾向をもっておりそれぞれの人生で学びを継続している私)
④鏡としての私・未知なる私(ホ・オポノポノではこれをたましいといっている、セルフアイデン
ティティー・セルフエピグノーシス・未知なる自分自身だと言っている)
時間や空間を超越しており、遠隔治療や真正体脱が可能な段階の人には、明かな意識的
自己であるけれども私達の段階にとっては未知なる私である。
(鏡である私とは地球大まで拡がることが出来る私、エレブナで言う高次の諸体)
⑤その鏡に映っている太陽の私・本来の神の子
これは私には全く分からない。ミルダッドが言う宇宙迄拡がっている神の子としての私のこと。
天地万物と一体である私、仏教で言う仏、キリスト教で言う「I AM THAT I AM」のこと
大生命、万物を生かし生きておられる根源のこと。
ミルダッドはこの⑤の私が、本当のあなたであり、本当の私であり、その私は万物の中にあり
この私の中に万物があるといっている・・・それが本当のあなたなのだと・・・
そしてミルダッドはこの①~⑤までの私を、坩堝の私だと言っているのであろうか。
であるから私達は自分自身である私のことを「私は○○である」「私は記憶である」「私は
思考だ」「私は他者と分離している」「私には愛が無い」などと断言したり、自分を、篩い分け
たり、自分を万物から分離したりしないで、その自己を篩い分けている実体こそ思考であり、
自分とは○○だと言っている私こそ記憶であるということを理解するべきなのであろう。
①~⑤までの自分のすべてを思考に依って篩に掛けることなく、自己を丸ごと、坩堝のよう
に包含していなさい。その坩堝があなたであり、実際の、現実の私なのである。
とその様に理解しなさいと教えておられるのであろう。