私達に求められていること
現在の私達に求められていることとは何でありましょうか?
それは
感謝すること、愛することでありましょう。
では感謝することが出来ないと思い、愛することが出来ないと思い
感謝することもせず、愛していないのは誰なのでありましょうか?
それは勿論、思考であり記憶であることでしょう。(記憶=自己という錯覚)
思考や記憶とは畢竟、何を求めているのでしょうか?
それは愛されること、感謝されることではありませんか?
愛されること、認められること、感謝されることでありましょう。
思考・記憶とは闇(錯覚)であり、それ自身である苦しみや痛みや恐怖からの解放を求めていますので
思考や記憶は愛されること、感謝されることを求めているのでありましょう。
彼らも大元に戻ることを求めているのではありませんか?
思考や記憶はそれ自身である苦しみや痛みや恐怖から解放されること、
感謝され愛されることを彼らは求めています。
病気になった患部を優しく介抱して元の完全な状態に戻してあげるように、思考や記憶という傷である
恐怖や苦痛に対して薬である愛と感謝を与えること、記憶に愛と感謝を捧げることが記憶にとって必要
なことなのでありましょう。
愛と感謝とは太陽であり、太陽は対象を選別していないように愛と感謝とは対象を持っていないこと
でありましょう。
もし愛することの中、感謝することの中に「対象を愛しているのはこの私」という感覚が残っていれば
また、私が誰かに感謝しているという知覚や自覚があり、私が誰かを愛しているということを認識して
いる限り、それは愛や感謝ではなく記憶の自己想起、記憶の自己欺瞞であるということでしょう。
私が誰かを愛していたり、感謝していることを自覚しておれば、それは決して愛していることや感謝して
いるのではなくて見返りを求めていること、即ち、商取引であり、自分の利益を考えて愛や感謝を利用
しようとしている記憶の動きであることでありましょう・・・愛や感謝は太陽のようにただただ感謝して愛
しているので、対象を持つほど不純ではないからでしょうから。
愛と感謝の実践とは全てのあらゆる万物に対して、自らからが発信していくのでしょう。自らが光となるので
しょう。
すべてのものへ「愛している」「ありがとう」と愛し感謝することでありましょう。
「愛している」の中身は「敵のために命を捨てること」でありましょう。「汝の敵を愛せよ」「友(敵)のために
命を捨てることより大いなる愛はない」とキリストは言いました。ですから「愛しているよ」ということは「あなた
の為に命を捨てるのよ」と言っていることです。そして「神は愛なり」「愛は神なり」の中に記憶が消去されて
いくことなのでしょう。
しかし、そこで狡猾な思考が言います、「私達は記憶なので愛することは不可能なのだ」「愛することは
出来ないのだと」、「私は思考なので思考なく見ることは出来ないのだ」と。
ここで私達は欺されてしまうのです・・・「私達は記憶であり思考なので愛ではない、従って愛はないのだ」と
それを言っているのは誰でしょうか?それは思考であって私達ではありません!私達は思考と一体化
してしまってはいますけれども、決して思考ではありません、私達は思考や記憶と自己同一化することなく
愛し感謝することが可能なのです!!不可能だと言っているのは思考なのです!!
私達は記憶に・思考に覆われ何重にも包まれてはいても鏡(未知なる意識)なのです!!と。
世界の賢者達がいっているように「私達は鏡・空(意識それ自体)なのです」と
私達は愛すること、感謝することで、この思考との一体化という虚偽からの解放があるのですから
愛し、感謝することが非常に重要なのです。愛し感謝しない限りは私達は目が覚めること「空の自覚」
がないわけです。
ですので私達は愛する対象を持たずに、天地一切の万物に対して決して選り好みや選別を行わずに
また一切の見返りを求めずに、ただただ与える事が可能であり、その実行が肝要なのではないでしょうか。
しかしながらもしそこで、私が与えているという知覚や記録や記憶が有るのならば、それは記憶の自己欺瞞
に過ぎないことでありましょう。
私達には報酬や報いや結果を考えている記憶に巻き込まれることなく、万物一切に対して
ただただ愛し、感謝することの実践を求められているのでありましょう。
それこそが記憶との一体化から解放される道の一つであることでありましょう。
私達が目覚めることが可能になる方法の一つであることでありましょう。
「与えよさらば与えられん」と教えられています・・・奇跡が起こるのでありましょう・・・
愛すること、感謝することで愛が与えられ、感謝が与えられ、記憶が鏡から剥がれ落ち(記憶が
カットされ)空なる根源へと帰還すると言われております。
そして
その与えられた愛と感謝を
天地一切の万物へ、生ある者も、生なき者へも限りなく与えることが可能になるのでありましょう。
・・・・私はそういう私になりたいです・・。