ただただ愛しなさい・・と
ホ・オポノポノではただただ「愛しています」と全身全霊を込めて唱えなさいと言われます。
愛の意味を考えたり、誰が誰に対して愛しているのか?などを考えたりせず、
また、これを言えばどういう功徳があるかなどを考えたりせずに、
また「愛しています」との唱えることの中に、目的や、動機と言った思考を含ませることなく
そして記憶・自我に動かされて「私が愛している」「私がしている」といった「私という錯覚」を
含ませることなく
ただただ全身全霊で「愛しています」「ありがとうございます」と唱えなさい・・と教えておられます。
「愛しています」とはどういう意味であるのか?・・・と言うことを考えているのは私達である「鏡を
占領している思考の記憶」であり、私とあなたという区別、分離を生み出し、相手とは自分を
写している鏡であることを「理解していないその記憶」なのですから・・・その記憶に対して
も愛していますと唱えなさいと、言われます。
「記憶である私」が「記憶である自分自身」を愛しなさいと。
自分が自分を許し、詫びて、愛して、感謝するのですと。
それはまた誰が良いとか悪いとか、敵とか味方であるとか、どのレベルであるとか、等々を心で考えているのは
他ならぬ思考の記憶なのだということですから、考えることなく「愛しているよ」と唱えなさいと。
ですので、ホ・オポノポノでは愛の意味を考えたり、愛を餌にして自分の欲望を叶えたりしようとしたり、
愛とはなにかについてを思案することなく、愛に全託し、五体投地して、全身全霊で以てただただ「愛
しています」と唱えなさいと教えています。
なぜならこの全人類で全く同じの「条件付けられている脳」によって「形成された思考」の「記憶」・私には
愛を知ることは決して無いからです。
そしてこの記憶の反応が今現在知覚され認識されている「愛とは何だろうか?」という探求でありますから
・・・その探求自身が記憶による、記憶からの質問に他ならないからです。と
では再度確認しますが?何故「愛しています」の意味をしっかりと把握して、心を込めて言ったりしてはいけな
いのでありましょうか?
何故心を込めたり、目的を持って一生懸命に唱えたりしてはいけないのでしょうか?
ではその逆にその質問に対して、質問したいのですが・・その愛の意味を考えているのは一体誰なので
ありましょうか?誰が愛していると言っているのでしょうか?
それは愛を知ることが無い思考なのであるということでしょう。記憶がその質問をして、愛しているよと言っている
ということでありましょうから。
そしてまた
その記憶の反応が「結局、私には愛がないのだ」と嘆き絶望して、自暴自棄になり、愛を求めて放浪し徘徊するわけです。
愛の意味を考えたり、誰に対して愛しているのかと愛の相手を考えたり、愛する相手を選択し、愛することの結果を考え
たり、愛することでの功徳や利益や効用を期待して結果を求めているのは、愛を知らない記憶なのではありませんか?
その思考が「私は愛しているよ」などと思うこと自体が、自己欺瞞なのではありませんか。
それは記憶が愛を利用して自己満足を獲得しようと計っているということでありましょう。
そして、それはまたその記憶が自らには、愛がないことに対して苦しんだり、絶望したりする事でもありましょう。
ですからホ・オポノポノでは心を込めたり、愛の意味を考えたりせずに「愛しています」と全力で唱えることが一番大切
なのだと教えているわけです。
私達である「意識の鏡」を占領してしまっている記憶とその思考が「愛しているよ」という意味を常に考えている訳ですから
その思考を介在させることなく、思考が考えている「誰が誰に対してなのか」などという間違った質問を介在させないで
即ち、愛とは何かを思考に考えさせることなく、ただただ「愛」に身を捧げて、愛に全てを捧げて「愛しているよ」と唱える
ことが非常に大切なのだとホ・オポノポノでは言います。
では誰がその「愛」に身を捧げて、五体投地して「愛しているよ」と言っているのでしょうか?
それは他ならない思考から形成されている記憶であることでしょう。
私達である意識の座「鏡」とは、思考や感情ではなく、勿論記憶でも、その記憶の反応でもなく行為ではないと言われています。
その意識の座である「鏡」とは、この記憶にとっては未知なる精神であり、未知なる意識です。と
私達であり意識である「鏡」とは思考することもなく、願う事も無く、記憶することもなく、行為することもないと言われております。
意識の座である「鏡」とは、この記憶の思考にとっては未知なる意識なのです。
その私達である鏡とは、この表面意識を覆い尽くしている思考である記憶にとっては空であり、ゼロであり、無なのですと。
思考である記憶には「私達である鏡」とは知覚したり、認識したり、知ることが出来ないからです。
思考である記憶が脱落しない限りは「私達である鏡」は現れないということでありましょうか。
「愛しています」「ありがとうございます」と唱えること・・
それこそが私達である思考を覆っている記憶が行えるただしい「正行」のひとつなのではないでしょうか?
「私が愛している」という「私」という思考が残っているかぎり、その愛している私が自覚されている限りは、それは愛ではないことでしょう。
ですのでホ・オポノポノでいう「愛しているよ」とは、思考や記憶という意味や目的や対象を含まない「言霊」で以て、ただただ全身全霊で
唱えるのがベストなのでありましょう。
この記憶である私が、誰かを愛しているというのは記憶の自己欺瞞であり、それは記憶が演じている詐欺であり、記憶の演技で
あることでありましょう。
ですので、私達・・・・・・思考や記憶や感情であり、目を覆い、知覚を隠し、認識を占領し、「本来は透明なる鏡」を汚して覆い尽くし
ている記憶は、ただただ自分である思考を交えずに、目的を持たずに「愛しているよ」と唱えることが大切なのでありましょう。
記憶である自分自身の働きである、「これをしたらどういう結果が顕れるのか」といった常に自己の利益を計算している思考に
同一化されることなく(自分自身と同一化することなく)
即ち目的や動機といった記憶の働きである自分自身に囚われることなく、ただただ感謝し愛しなさいとホ・オポノポノは教えています。
思考なく、意味を詮索することなく、ただただ全身全霊で「愛しているよ」「ありがとうございます」「ごめんなさい」「許して下さい}
と唱えることが、記憶にとっての正しい行いであり、その正しい行いが本来の秩序(思考の脱落)をもたらすのではないでしょうか?
即ち意識という鏡を覆い隠しているこの私、この私と言っている記憶の「自己脱落」をもたらすのではないでしょうか。
五感を通じて内部と外部を知覚している私達とは実は鏡ではなくて、その逆の鏡を覆っている記憶なのではないでしょうか
その記憶が私達の知覚と認識という正常なる脳を制限し、意識を包み、濁らせてしまっているのではないでしょうか。
この私の正体とは記憶なのではないでしょうか。私は存在しておらず、ただ思考の記憶が反応しているのでありましょう。
このこれを考えているのは私達ではなく、私達を包んでいる記憶の思考なのでありましょう。
私が理解するのではなく、私が悟るのでもなく、私が自己実現するのでもなく、私が愛するのでもなく、私が脱落するのです。
私が知るのでもなく、その私が「愛しようとすること」の中で、「内奥の未知なる私」の恩寵によってこの私が解体され、解消され
光に吸収され、私は脱落し、私・自己が消滅することで、この私・記憶が覆い被さっていた鏡・意識が顕現するのである
と教えておられます。
この私は「私は知らない」ということを決して知ることがありませんし、「私は知らない」ということを理解することもないので
ありましょう。自分が光を得て悟るのだとそのように思い込んでいるのは記憶に過ぎません。
そしてこの私こそが「鏡である意識」を覆い隠し、知覚と認識を包んでいる記憶なのですから。と
燃えさかる火の中に蛾が飛び込んで死んで火となるように、私は愛することで愛の中へと消えていくのです。
ヒューレン博士は確かこのような事を話されておりました
「愛しています」と唱えることで、神聖なる意識がやってきて、不完全な意識を見る事が起こり
そして、その不完全な意識を神聖なる意識が見ることにより記憶は浄化されますと。