内と外を見ているのは記憶だ




内と外を見ているのは記憶だ。

私が内部と外部を見ているのではなくて、記憶が記憶自身を内部と外部に投影して見ているのだ。と

立ち向かう人の姿は自分自身だ・・と。

記憶が記憶である自身を見ていて、見ているのは記憶であるのに、私が記憶を見ていると錯覚している。と


その記憶が架空の私自身である。思考がその架空の私の正体であると。言われる。と

自分と他人とに、内部や外部とに、分離していると実感している私とは記憶であり、それが思考なのである。と

そしてまた

この私とは記憶なのに「自分」だと錯覚している。記憶が即ち私を詐称しているのに、記憶は「私が存在してい

る」と架空の私を創りだし続けている。と


考えているのは記憶だ、私が考えているのではなくて、記憶が考えているのだと。

条件付けられている記憶・思考が自分のことを私だと錯覚している。と

私だと言っているのは人類で共通の思考の記憶であって、その私とは記憶に過ぎないと。


そしてその記憶は48時間休み無く続けて働いている。

従って、私は記憶に全くいつも支配され占領されてしまっている。思っているのは私ではなくて記憶なのだと。


話しているのは記憶だ、24時間、記憶が私を占領しており話しているのだと。

聴いているのは記憶なのだ、24時間記憶が私を占領しており、記憶が人の話を聞いているのだと。

感じているのは記憶だ、私が感じているのでは無くて記憶が感じているのだと。私とは記憶なのだと。

それ故にヒューレン博士はこの記憶に対して「御免なさい」「許して下さい」「愛しているよ」「ありがとうござい

ます」と言いなさいと言う。



怒り、イライラし、不安で恐れているのは誰か?恐怖に怯え、憎み続けているのはそれは記憶なのだ。

コロナを心配して罹患しやしないかと心配し、お金がなくなり、失業を恐れているのは記憶なのだ。

欲望に煮えたぎり、愛することが出来ず、嫉妬と競争心に溢れ、悪行を重ねているのは誰か?それは記憶なのだ。

真理を知らず、私を知ることも出来ず、自己の利益を求め、神を利用し、悟りを手に入れようとしているのは記憶だ。

仕事に従事し、学校で勉強し、日常生活を送って、政治活動や宗教や礼拝に精を出しているのは記憶なのだ。

だからその私を占領している記憶に対して「愛している」「ありがとうございます」と言いなさいと言う。


行為しているのは記憶だ、記憶が行為しているのだと。

記憶が知覚し、そして知覚されていると。知覚し認識されるもの、考えそして考えられるものとは記憶なのだと。




そして、その記憶がこの私を詐称する記憶なのだ。これがたましいと繋がる表面意識を汚し、覆い尽くしている記憶なのだ。

・・・そのことを本当に腹の底から実感し、理解しているならば

その時、あなたは「御免なさい、許して下さい、愛している、ありがとうございます」と言うことが出来ると。

私自身に対して、私自身を「愛しているよ」と言うことが出来ると。

そのときあなたは表面意識として潜在意識の記憶に対して愛しているよと言うことが出来る・・・とヒューレン博士は言う。




「愛しています、有り難う」と上記のホ・オポノポノの真言を潜在意識にある記憶に対して言うことが出来るのは

たましいと繋がっている表面意識の私であって、その意識を覆っている記憶なのではない、覆われている意識なのだ。

それを言うことが出来るのはこのたましいと繋がる私なのであり、私の潜在意識にある記憶なのではない。と



この表面意識である意識は、意識であって思考ではない。思考とは意識・セルフエピグノーシス・セルフアイディンティティー

ではないと。

私ではない思考・記憶を「私ではない」と否定することによって、意識である私が顕わになる。ふたたび再形成されていくと。



考えているのは記憶であり、見ているのは記憶であり、

思っているのは記憶であり、話しているのは記憶であり、行為しているのは記憶であると。記憶が選択しているのだと。

・・・ということを考え思っているのは記憶であって、透明なる意識である表面意識ではない。表面意識は意識であって

「私は記憶ではない」と記憶を見ているのである。


だからこそその記憶に対して愛と感謝を与えなさいと。



意識は思考を言葉なく見ている。それは意識であって記憶ではなく、記憶の反応である思考ではないからだと。

記憶の反応である思考には意識を知覚することは出来ないし、想像することも出来ない。思考は意識を知らない。



・・・そのことをハッキリと頭や言葉だけではなくて本当に心の底からいつも実感しているのなら


その時、あなたは表面意識として表面意識の再形成のスタート地点に立っていると言われる。




その「見ているのは記憶である」・・ということをハッキリと見ているのは記憶ではなくて表面意識なのであると。




これと同じ事を「人類の教師」は異なった表現で少々難解な言葉を使って言われている。

曰く


「観察者は観察される者である」ことを思考なく見ているのは観察者ではない。と

それ故に、観察者を見なさい。見ている目を見なさい。見ているものを見なさい。見ているものは誰なのかを見なさい。と


私ではないものを否定することが私を肯定することであると。



それは単に、記憶がそのことを思考しているだけなのではないと、この事実を事実として言葉なく見ているのは

記憶の思考だけではなくて、記憶を見て(観照して)いる表面意識(透明なる)の高次思考であると言うことだと。


高次思考(高次知性)を使うのは、記憶ではなくて、内奥のたましいと繋がる表面意識であると。



「観察者は観察される者である」ことを考えるのではなくて、事実としてそれを見ているのは思考ではない。

それは透明なる鏡の意識であり、それはそのとき、その目は観察者ではなくて観照者であることだろうということか。


この私、日常生活の中で私、自分だと自己を意識し、実感しているのは人類で共通で同一の思考(記憶)であり表面意識ではない。

表面意識を覆っている記憶なのである。個別の私、他と分離している私、記憶・人格とは記憶によって生じている虚構(エレメンタル)であると。



その記憶とは思考なのであって魂と繋がる表面意識ではない。その表面意識を覆っている私という観念・記憶なのだ。と



本当は記憶の自己というものは存在しておらず、ただ思考の記憶だけがあり、記憶が記憶のことを私だと錯覚している。

その記憶の錯覚が表面+潜在意識内で起こっている。記憶の反応(思考)が自動的に起こっているだけなのであろう。





それ故に「人類の教師」は

思考者はいない。

思考があるだけだ。(思考する私はいない、思考があるだけだ)と教えておられる。

記憶している私はいない、記憶があるだけだ。(私が記憶するのではなくて、記憶が反応をしているのである)。

・・・と教えておられる。



それゆえに、この記憶がこの私の正体であり、この記憶の反応が私と言う虚構実感(想念形態)を生み出しているのであり

この記憶が肉体を司っている潜在意識をコントロールして記憶が見て、記憶が知り、記憶が考え、記憶が話し、記憶が記憶し、

記憶が生活をして、記憶が行為している。その記憶とは私という観念である事だろう。



その私という実体感覚は記憶の反応が持つ記憶の実感なのであり=その私とは即ち虚構なのである。と

「私は万物ではないという私」とは記憶の反応であり、記憶が生み出している虚構なのである・・・と言うことなのであると。

「私は他者と分離している身体だ」というのは記憶の反応であり虚構の私なのである・・・と言うことなのであると。

真実の私とは、記憶や記憶の反応ではなく、記憶・思考を見ている表面意識・鏡である透明なる意識なのだと。




このことを、ただたんに知っているだけではなくて、本当に腹の底から、息を吸う如くに心底で実感しているならば、その時

たましいと繋がる表面意識は潜在意識の中にあるこの記憶に対してホ・オポノポノというクリーニングを実践できると言う。このとき

「御免なさい、許して下さい、愛している、ありがとうございます」と記憶に対して言うことが可能になるのだとヒューレン博士

は言っている。このとき記憶のクリーニングを魂の内奥の至高の実在にお願いすることが出来るというのだ。と

記憶が鏡から取り払われ意識という鏡が顕れ、その鏡である意識に根源が光り輝き始めるのだと。



見て、考えて、感じているのは、記憶自身であり、記憶が自分自身を対象として見て、知覚し、認識しているのであると。


日常生活での私とは「未知なる鏡」(たましいと繋がる私)を覆っている記憶であり、その記憶自身が自分である記憶を他者の鏡に投影

して、自分自身の記憶を見て、怒り、恐れ、憎み、非難し、人を裁いている。「私の判断は正しい」などと嘯いている。



・・この事実を事実として腹の底から、通常の生活の中でしっかりと実感しているのならホ・オポノポノのワークを行うことが出来る

・・・とヒューレン博士は言うのである。


自我を自分や相手に見ているのは、記憶(思考)なのである。見ている私とは実は記憶・自我なのである。と

相手の姿とは「相手の鏡」に映る自分自身なのである。と

これを書いている私も、読んでいるあなたも、意識を覆う思考・記憶なのであって、鏡であり意識である私ではないと。



記憶(思考)が記憶を見て、記憶である自身を「あいつが悪い」と知覚し、判断し、裁き、認識しているのである。

非難している相手とは自分自身なのである。



見て、話して、考えて、知覚して、認識しているのは記憶である・・・。この私とは記憶なのである。


この事の理解が恩寵によって起こるならば・・・

鏡にあるがままが映し出され


このとき世界が私なのであり、私が世界である・・というたましいの実感が表面意識に生じているという。


この事の実感があるとき、そのことを見ているのは「たましいと繋がる表面意識」なのであると。