私達は起こっている出来事に参加していない
賢者は言う、「私達は起こっている出来事に参加していない」のだと。
それは一体どういう意味なのであろうか?
なに!それは?人を馬鹿にしているのかい!!私達がこうして毎日一生懸命に生きているのを茶化しているのかい!!?
と、お怒りになることだろう。しかし今、ここで話しているのは私達通常の人間の平均的な意識・目(本当は意識ではなくて記憶の反応)
での話しではなくて、この私達の地球では死んでもお目にかかれない、思考を超えている高次の意識を持った賢者からの情報に
基づいて話していることで、ここで言う賢者達の「私達は出来事に参加していない」というのは、その思考を超えている目を持っている
記憶による思考ではない「目」からのお話を紹介しているので吃驚されないでほしい。
その私達にとっては未知なる「目」である賢者は「私達は出来事が起こった後に、出来事を知覚認識している」のだと言われる・・
更に、出来事が起こった後に、出来事に参加しているのは私達ではなくて私達を覆っている記憶なのだと言われる?!!
その記憶によって覆われている私とは「空」である意識であると云われている。
その起こっている出来事に対して反応しているのは一体誰なのであろうか?
それは、私達ではなくて私達を覆い包んでいる記憶(自我・私という観念)なのだと・・。記憶が私だと思っているのだと。
私だと思っているのは記憶自体なのであると。
私達(空である意識・鏡・意識の座)は記憶の奴隷であり、記憶に占領されているのだと。空なる意識が思考に占有されている
のだというのだ。
この目とは、鏡・意識の目ではなくて「意識の座・鏡」を覆っている記憶の目なのだと。
記憶の私とは存在していないまやかしであると、記憶の私とは単なる記憶の反応のことなのだと。
その記憶が「空なる意識」である表面意識と潜在意識を覆っているのだと。記憶とは観念・私という観念であろうか。
記憶が考え、記憶が行為し、記憶が見て知覚認識している。と
考え、計画し、記憶し、見て、聴いて、話し、知覚し、認識し、行為し、生活し、仕事をしているのは記憶である。と
そして以下に述べる「私ではない記憶」とは、眠っているような状態の「たましいと繋がっている私」を覆うこの現在の思考している「記憶」のことだ。
記憶が文章を書いているのであり、読んでおられるあなたも「あなたではない記憶」なのである。記憶が日常を生活しているのだ。
決して意識という「空」なのではない。記憶には「意識・空なる意識」を知覚できないし、認識も出来ないのである。と
・嫌がらせを受けたとき、ついカットなって「この馬鹿野郎!!」などと怒鳴ったりするのは記憶なのだ。
・起こっている事に一喜一憂して、喜んで満足したり、病気になり、不安になって塞ぎ込んでしまうのは私ではなくて記憶なのだ。
・車を運転し、幅寄せや、車間を詰められた時に、怒りに煮えたぎってしまうのは私ではなく記憶なのだ。
・褒められ、認められ、報われれば喜び、報われず、認められず、無視され、軽蔑され、非難されれば怒り悲しんでいるのは私ではなくて記憶なのだ。
・常に自分がどう見られているか?どう思われているか?という自己関心、自己利益、競争心、自尊心で一杯なのは私ではなくて記憶なのだ。
・将来のことを心配して、明日はどうなってしまうのかと不安になり、安定を求めて奔走し、貯金残高を見てホットしているのは私ではなくて記憶なのだ。
・目的と目標と理念・理想を以て計画を立て、人生を考え、ああしよう、こうしようと家族を愛しているつもりになっているのは私ではなくて記憶なのだ。
・相手を利用し、神を利用し、信仰を利用し、瞑想を利用し、ホ・オポノポノを利用し、利用し利用されることで何かを得ようとしているのは私ではなく記憶なのだ。
・自己拡大欲、自己達成欲に駆られて、自己の悟りを求め、自分が神の隣に座ろうとしているのは、自他の分離の妄想自体である私ではない記憶なのだ。
自我とは記憶なのだ。記憶が自分を私だと思っているのであると。
・自分を肉体や諸体だと思い、自分と万物は分離している、自と他は異なる、私は世界ではないと思っているのは私ではない記憶なのだ。
・自我という嫉妬心や愛のなさ、恐怖・不安や競争心・支配欲そのものである自身に気づいて自我を非難しているのは私ではないその記憶なのだ。
・その記憶であるエレメンタルが自分自身を見て、自己批判し、自己分析し、自分は嫉妬や恐怖で愛が無いから自分を変えようと努力している。
・あるがままをあるがままにそのまま受け入れず、最低と最高に分割し、善悪に区別し、自他に分け、最初と最後に、貧富に、良し悪しに分けているのは記憶なのだ。
・あるがままの万物を、そして私をあるがままのそのままに愛せず、感謝せず、許しもせず、受け入れせず、非難し、思考し、判断し、批評しているのは記憶なのだ。
・その記憶が自分を他者の鏡に投影して、相手に自分の姿を見、相手の鏡に映っている自分自身の記憶の姿を見て、「おまえは悪だ!」と自分を非難している。
・自分や他人の中に自我を発見し、自我を対象として見ているその目は記憶の目なのである。未知なる魂の目には分離がなく記憶さえも愛しているのだと。
・一生懸命に生きて計画し、真剣に考えて、追求して求め、質問し、思考し、最期には肉体を離れると思っているのは私ではない記憶なのだと。
記憶が私だと言っている。その記憶とは質料でありエレメンタル(想念形態)なのだ。
・その記憶に占領されている私達とは思考ではなくて「思考を思考なく見ている目」であるのだと!!本当の私は思考ではなくて「意識の座・鏡」なのだと!!
しかしそのことを考えているのは思考なのであり、思考を思考なく見ている「思考を超えた意識」とは思考ではなく、観照しており、沈黙・空自体なのだと。
・思考なく、記憶なく全てを分離なく見ており、万物の中に私を見、わたしの中に万物を見ている・・その未知なる目が本当の私なのであると。
そして以上のそれらを考えているのが記憶なのである!!
思考しているのは記憶であり、記憶は思考であり、その思考がこの上記のように話しお喋りしている。
起こっている出来事に反応しているのは私達自身ではなくて私達を覆っている記憶であり、記憶が反応している。
私とは空であり、空なる表面意識であり、空なる潜在意識であり、記憶でもなく記憶の思考でもないのであるというのだ。
記憶が出来事を見て、そして感じて、考えて、話し、行動している。記憶の私は実在ではない。それは記憶自身なのであると。
日常生活で夢を見ているときも、起きて意識のあるときも見て、考えて、感じて、行い、思っているのは私ではなくて私を占領している記憶なのだ。と
記憶が私と偽って生活しているのだ。鏡を覆って、表面意識を占有して生きているのは私ではなくて記憶なのだ。と
記憶の私とは虚偽であり、それは単なる記憶なのであり、記憶がないときには私はいないのである。
なのに
この私達(現在のパーソナリティー)は記憶と一体化してしまっていることに気が付きもせずに
全く記憶と一体化してしまって、記憶が思考するように思考し、記憶が見るように見ていて、記憶が
行為するように行為してしまっていると言われている。私達は全く潜在意識の記憶と一体化してしまっていると。
私達(本来は空であると云われている)は記憶の奴隷であり、記憶が思うように思い、記憶が見るように見て、記憶が行うように
行っているのだと。私達は空なる意識であり、この意識である私が肉体を纏い、また形成過程のサイコノエティック体を纏って
物質界を生き、死後の世界を生きているのだと。この空なる意識とはセルフエピグノーシス、セルフアイデンティティーと呼ばれている
のではないか?
だからこそ私達は記憶に対して「ありがとうございます、愛しています」と言いなさいとホ・オポノポノはいう。
その言葉が、この言霊が、記憶からの解放をもたらすのだと。
この私達の環境に、身辺に、突然起こる予期せぬ出来事、運命づけられた全くコントロールできない肉体の
健康や病気、生と死、出会いと分かれ、失敗や成功、才能や障害、人種や国籍、教育や家族それらの起こる
あらゆる出来事・・・それらはカルマの法則によって完全完璧に絶対的なタイミングで必然的に起こっている。
偶然は存在していないという。
起こっている事とは100%の数学的正確さで必然的に起きているのだと。
一瞬の狂いもなく、完璧なタイミングで、何時どこで何が起こるのか?・・それはカルマの法則によってであることだろう。
突然訪れる不幸や幸運、そして恐ろしい病やその逆の幸運、そして失敗や成功、才能のあるなし・・それらの良いことも良
くないことも完璧に完全に一瞬の狂いもなくカルマの法則に従って起こっているのであろうと。
では、その直後に、その出来事が起こった後に、その出来事に反応しているのは誰なのだろうか?
それは記憶だけではなくて、私達である、たましいと繋がっている現在のパーソナリティーでもあるのだ。
何故ならば
その記憶(エレメンタル)と一体化してしまっている現在のパーソナリティー(鏡・セルフエピグノーシス)が記憶が
引き起こしている思考や行為を、自分がその行為と思考を行っているのだと実感しているがために、その記憶が
行なった行為と思考の責任を現在のパーソナリティーが負うこととなり、カルマを創ってしまい、カルマに縛られて
いるのであると・・・。
そして私達が記憶と一体化してしまっているが故に私達である現在のパーソナリティーは自分が創りだした記憶と
一緒にそのカルマの法則の結果を受けることとなるという。その記憶とは一人ではなくて大勢の多数から成り立っていて
過去からの地球全人類の記憶なのだという。
私達、現在のパーソナリティーは潜在意識にある記憶と全く一体化していて記憶が行為するように行為してしまっており
記憶が見ているように見ており、記憶が感じるように感じていて、記憶が話すように話し、記憶が欲するように欲し、
記憶が考えるように考えてしまっているからその記憶に対しての自己責任があるのである・・と。
私達とは空なる鏡なのであると。
従って当然のことながらその記憶による反応である行為や思考や感情の責任はその記憶を生み出し
記憶と一体化してしまっているこの現在のパーソナリティー(鏡)が負うこととなるのだと。
そして、完璧なタイミングで起こっている出来事という結果に記憶と共に直面することとなるのである・・
という。
Ⅰ:起こっている出来事とは完璧なカルマの法則によって、完璧完全に起こっている。一切の偶然はない。
Ⅱ:そしてその起こっている出来事に対して私達である現在のパーソナリティー(鏡)を覆っている記憶は
その不幸や幸運という起こっている出来事の直後に反応し、考え、思い、怒ったり、恐れたり、苦しんだり、
快楽や満足や不満を憶え、苦痛を感じたり、行為したりしている。
Ⅲ:私達である現在のパーソナリティーは、その私達が創りだし私達を覆っていて私達を包んでいる記憶(エレメンタル)
と完全に一体化してしまっているので、その記憶(という私達が生み出したエレメンタル)の行為や想いや思考の
責任を持つこととなり、その記憶と一体化して目覚めないままに、幾度となく生まれそして肉体を離れて行く。
そして、再びまたこの地球上のある場所やある国民やある人種やある性別のカルマを持った肉体に宿ることとになり、
必ずや完璧に起こる出来事に目が覚めないままに巻き込まれていく。
そこでホ・オポノポノではこのⅢである私達・現在のパーソナリティーに対して。、自分が生み出したⅡである記憶に対し
て「ごめんなさい」「許してください」「愛しています」「ありがとうございます」と唱えなさい。と教えているのである。
ホ・オポノポノではこのⅢである現在のパーソナリティーとは表面意識と潜在意識から構成され、本来は純粋なる空であり、
透明なる鏡であり、内側では内奥のたましいと繋がっており、さらにその魂は全てをあらしめている「至高の実在」と繋がっ
ており、私達は本来はこの「至高の実在」という光を輝かす事が出来るのにもかかわらず、自らが生み出してしまった
記憶に包まれ、汚染され、覆われているので、内なる至高の太陽を輝かすことが出来ないでいる・・と教えておられる。
「ありがとうございます」「愛しています」「御免なさい」「許して下さい」がその突破(思考からの解放)のためのキーワード
であるというのだ。
だから、最終的には「私を愛すること」に尽きる。キリストが言う「汝の敵を愛せよ」であり。記憶とは全人類だからである。
すべてのあるがままをあるがままに受け入れ、一切に感謝し、許し、愛することであろう。
「私を愛する」中には、見えるものも見えないものも、生きているものも、死んでいるものも、すべての私が含まれるからである。
何故なら私とは万物であり、原子から宇宙までが、石から人間も含めすべては「私」であるからだと。言われている。
私とは空なのであると教えておられる。