考えているのは誰か?
考えているのは誰なのであろうか?
誰が考えているのであろうか?
誰がPCの前に座ってこの文章を書いているのであろうか?
いまこれを書いているのは誰であろうか?
それは勿論この私であることだろう。
それでは、この私とは誰なのであろうか?
それはこの私とは記憶であり、条件付けられている「思考の記憶の反応」であることだろう。
それゆえに
この記憶が考えて、記憶がそして思索している。記憶が書いている。
記憶が腕と指を動かして書いている。記憶が考えて、行為して、そして話している。
考えているのは記憶であり、記憶が思考している。悩み求め、質問しているのは記憶なのだ。
そして記憶がこの私の正体なのだ。・・・記憶とは源泉から起こっているのではないか?・・・。
記憶とは条件付けられている思考の結果であることだろう。
自分の考えとは「条件付けられている脳の結果」であり、人類が全員、その思考を同じように受信
している。そして私達は同じ人間であるのに、私は何々国籍で、何々人種で、何々宗教だと争っている。
記憶とはその人類が全く同じ構造の脳が受信している同じ思考なのであって、地球人は同じ記憶であろう。
私の考え、私の哲学、私の宗教、私の結論とは、他ならないこの条件づけられている思考の記憶のこと
なのではないか。
では同じように一体、誰が見ているのだろうか?
見ている私とは誰なのか?
それは見ているのは記憶であろう、記憶が見ている。
記憶が記憶である自分を見、その見ている記憶は記憶を私だと思い込んでいる。そしてその記憶を対象に
投影して「悪いのはあいつだ!!」と非難し、判断して、記憶はお互いに言い争い戦っている。
そして記憶が、記憶の目で他人を見、自分自身という記憶自身を内部に見、記憶を他者に投影して
記憶の目で世界を見ている。
世界を見ているのは記憶であり、その記憶が見ている世界とは、必ずや自他に分裂し、万物と私は
別々であり、私とあなた、自と他は分離しているように記憶には見えている。
では行為しているのは誰か?
それも同じように潜在意識を汚濁している記憶が肉体を動かして行為しているのであろう。しかしながら
深読みするならば、肉体を動かしているのは記憶を使役している根源であり、根源が行為しているのにも
拘わらず、記憶はその行為を自分が行為していると錯覚しているのではないか?
記憶は行為が起こった後に、自分が行為していると思い込んでいるのであり、本当は行為とは根源が記憶
を使役して行為しているのではないか?
記憶は自他を分離し、恐怖自体であるため、常に記憶が行う行為は恐怖や不安によって汚染され
そして功利的な目的を持つことだろう、そしてそれがいう目的とは公益を唱えつつも必ず自己関心であり、
自己に利益や恩恵や結果を誘導してしまう・・・従って記憶が有る限り行為は、記憶という恐怖に
汚染されている行為であることだろう。
では話しているのは誰か?
話しているのは、この条件付けられている記憶が話している。
話すこと、書くこと、模索すること、考えること、探求すること、質問することとは、この記憶の動きであり
、記憶とは無知なのであるが故に、自己を知らない。
それ故に記憶は考え、思考し、探求し、質問するのである。
しかしながら、記憶が一念発起して、自己観察を始めるときに事態は大きく動くこととなるのではないか?
この記憶が記憶を自己観察して、記憶である自分とは条件付けられている脳が受信している思考の結果・・
即ち記憶であることを自己認識し、
記憶が自分自身が起こっている源泉、記憶である自分自身の大元・根源に目を向けるとき
自ずと感謝が沸いてくるという・・
「ありがとうございます」「愛しています」「許して下さい」「御免なさい」という
想いが生じ、その思考の想いが記憶の自己変革をもたらすのではないか?
その自己変革のことをホ・オポノポノではクリーニングと言っており
クリーニングすると言うことは、記憶に対して「有り難う、御免なさい、許して下さい、愛しています」と
ただただ念仏やお題目のように唱えることだ、と言っている。
そして、そのクリーニングの結果として
その言葉が潜在意識に届きはじめ、潜在意識から、コーザル体を経由して未知である「うちなる魂」へと
届き、「うちなる魂」はその想いを最内奥の「神聖なる実在」にとどけられ、その最内奥の「神聖なる実在」が
潜在意識にある記憶をクリニーングして下さる・・・と言っている。
その結果として、考えること、見ること、話すこと、行うことはクリーニングされて
記憶のものではない、根源からの叡智と、「自己を含まない目」・即時の行い・高次な愛の行い
へと変換され、記憶であった思考は脱落し、思考を含まない高次の意識「即時の理解」、意識の
拡大をもたらし、「固定の視点を持たない同時に多くの位置から、同時に見ること」が可能になり
同じように「全てのものの中に自分があり、、そして同時に自分の中にすべてを見ること」が起こる
といわれている。
そのように記憶が脱落した「高次の意識・目」が分離なく世界を見、話し、聴く・・・と言われている。
・・が残念ながら、この久保栄治という「意識の座」にはそれは起こっておらず、無知のままだ。
・・・久保栄治の意識には今まで通りの記憶の反応が続いており、探求も、求道も、精進も
その記憶という思考・自我が行っている。
久保栄治が見ているとは、記憶が見ており、思考の記憶には記憶の世界しか内部と外部に見ることが
出来ないでいる。
ので久保栄治の内部は分離し、久保栄治が見ている目には、相も変わらず他人を自分とは異なって
いる、万物は私ではないという錯覚が延々と続いている。
記憶が見て、行為して、話して、感じて、知覚して、思索して、生きている限りは、内部と外部は分離し
分裂したままであり、ひとつではないことだろう。
けっして「叡智のしずく」「真理」を理解することはないだろうし、真実を見て理解する事もないことだろう。
記憶が記憶に気づき、記憶が自己観察を実践して、自己の源泉に感謝し、すべてを愛し、許しを請うとき
奇跡がもたらされ、この「記憶である自己」の脱落が起こる・・・とヒューレン博士は言っている。
そのことをホ・オポノポノではクリーニングと言っている。