潜在意識の記憶は誰の責任
ホ・オポノポノでは私達には自分の中にある潜在意識の記憶に対しての責任が
あると教えているが
私の中にある記憶とは一体、誰の責任であるのだろうか?
誰がその記憶を創りだしたのであろうか?
記憶は私の記憶である以上は、それは私が生み出した記憶なのだ
従って、責任は記憶を生み出した私の責任であることだろう。
その記憶とは私の中にあるのであるから、またそれは私が肉体に入って脳と繋がり
脳が受信した思考や感情と同一化した結果として作り出したものであるから
私の責任である。
当然、私の中の記憶とは私の記憶であり、作りだした本人が責任を負うのは当た
り前であろう。
外部のエレメンタルとして、突如私に襲いかかる想念形態は私が生み出した記憶なのだ。
私が知覚している、その意地悪する相手とは私が生み出したのである。記憶の私が自分
の姿を相手の鏡に投影しているのに、それを私達は目の前のあなただと勘違いしている。と
私の潜在意識にある記憶の投影の責任はそれを生み出した私の責任である。と
ホ・オポノポノではその記憶が人体の腹部にある潜在意識を動かして行為を行い、思考と
感情をコントロールしている・・と言っている。
・・・・この現状の諸体が未発達な状態では私達には自由がないと言っている。
私達の自由意志とは記憶の自由意志であり、記憶が脳と身体をコントロールして
人生を生きている。と
・・・逆に言うと、私達が知覚している自由意志、思考や感情は私達ではなくて記憶なのであると。
記憶が思考と感情や欲望と行為を支配しているのである。
未成熟な私達はその行為や思考や感情や欲望が起こった後に、自分が行為し
自分が思考したと錯覚している。その行為と思考を自分がしていると知覚し認識している・・・と
・・・それを・・私達は自分が行為し、思考し、欲望していると認識しているのだと。
未発達な私達はその行為や思考や感情や知覚が私達のものなのか記憶のものなのかが判別できないのである。
私達の思いと行いは、記憶によってコントロールされている・・・とはいえども
その記憶(エレメンタル・人格)を生み出したのは、ほかならぬこの「たましいと繋がる
私」なのである!
その思いと行いを「たましいとは繋がってはいるが殆ど覚醒していない私」が、幾度の人生
に於いて条件付けられている脳を介在して無知(私という観念)と同一化し、
そして
記憶が思う様に思い、記憶が行うように、思い行って記憶を創りだしてしまったのであれば、
たましいと繋がっている私達には思いと行いを創り出せるということであり、
この私達には思いと行いを行って造り出せるわけなので、
その思いと行いを造り出せる私たちが、
今度は逆に、新たに私達が造り出した思いと行いを使って過去の思いと行いを
正すことが出来るというわけである。「感謝」と「ありがとうございます」と唱えられる
のである。それこそが正しい思いと行いであろうか。
この際の私とは、その記憶であるエレメンタルの集合体即ち人格ではなく、人格と一体化
してしまっている「現在のパーソナリティー」のことだろう。
即ち『コーザル体を介して「たましいと繋がっている私」』のことであり、
それは「たましいの新たに開いた目」のことであり、輪廻しながら成長している
いまだに未熟で未形成の私の事であると云われている。
私達は過去生に於いて
殺したり、殺されたり、裏切ったり、裏切られたり、憎まれたり、憎んだりして、幾度となく人生を
繰り返し生きてきた。
私達に襲いかかる思考と感情の嵐に巻き込まれているのは、その思考と感情を生み出して
きた当の私達本人であり、その思考と感情の嵐とは私が生み出した結果であることだろう。
幾度の生で、肉体を得て、男として、また女として、あるときは肌の色が白かったり黒かったり
いろんな宗教や人種の中で繰り返してきた人生・・・私達は数え切れないほどの思いと行いを
生み出し、記憶を生み出してきているのであろう。
・・・そして、その結果をこの人生で受けとっている。
理由もなく訪れる出来事、不幸や事故や病気や虐めや裏切りは、私達が行った過去の
私達の行いと思いの結果である・・・ということになろうか。
その理由もなく訪れる災難や出来事は私が生み出したのである。
内部と外部の起こっている出来事、そしてそれに対して反応する記憶・エレメンタル
・・それらは私達が生み出した過去の思い行った結果なのである。
それは私達の責任なのである。
ならば私達はどうあるべきなのであろうか?
何が正しい思いと行いであるのだろうか?
それは
改悛、悔悟、許し、愛すること、感謝することが私達にとっての正しい思いと行いである
・・と思われる。
それを実行し記憶の浄化を、内奥の「未知なる実在」にお願いすることは正しいのでは
ないだろうか
それが正しく私達にとっての行く道を示していると思われる。