過去の清算




私達が生きているのは「過去の清算」のためだろう。

「過去の清算」・・それは私に戻ること、それは私に出逢う為の沢山の方法があるうちの一つの方法だろう。

「過去の清算」・・それは私がセルフエピグノーシス・セルフアイデンティティーに戻ること。

「過去の清算」・・それは私が本当の私と一つになること。私から記憶が取り払われ、私が私の意識に、即ち、
 
          雲が晴れて大空が晴れ渡り、大空には太陽が輝き渡る本来の状態に戻ること。

わたしはそう確信している。「過去の清算」とは「身心の脱落」のことだろうか。





ミルダッドは下記の様に言っておられる

「私を否定することは、即ち私を肯定すること」だと

「内なる私から毒を取り払いなさい」


ではここでミルダッドが言う内なる私とは何のことだろうか?

内なる私とは私達人類一人一人で共通の潜在意識の事だろう。


では内なる私の毒とは何だろうか?

毒とは私達の潜在意識にある記憶の事を指しているのだろう。


では記憶とはなんだろうか?

それは幾度と繰り返し転生し、その都度のその人生で経験した過去の記憶の経験

即ち「起こった出来事に対する記憶からの反応」のことだろう。

私達の人生での「私の思考と行為」とは「記憶の思考と行為」なのではないのか?

ここでは記憶が記憶に対して反応していて、意識は覆われたままだ。

思考は意識ではないからだ。と


記憶(思考)が記憶(思考)に対して反応し、更に記憶(思考)を積み重ねていて、

「魂に繋がっている私」は未だに眠ったままである。・・ということだろう。

・・・私は眠ったままなのだと・・ミルダッドはその様に教えているのだろうか。




ミルダッドは再び言う「内なる私から毒を取り払ってもらいたい」

その記憶という過去が清算されなければ「私(セルフアイデンティティー)の目」は開かれないと・・

即ちその時には、「この目が眩まかされて新たなる目が生まれる」と・・。


では「過去の清算」とは何だろうか?

それは私達の内なる私(潜在意識)から毒が取り払われることだろう。

それは神道で言う「天の岩戸が開かれる」ことであろうか。

即ち、それは内なる私である潜在意識から記憶がクリアーになると言うことだろう。


それが「新たなる目が開かれることであり」、同時に「自己を忘れること」「身心の脱落」「雲がとり晴れて

大空が出現すること」「鏡から覆いが取り払われること」「自己の死」「自我の終焉」が恩寵によって起こる

ということだろうか。



それは聖書でキリストがいう「生まれ変わらなければ神の国入ること能わず」であることだろうか。

しかし私達はそれをニコデモのように輪廻転生のことだと間違って解釈し、私達は未だに生まれ変わり

ながら、相も変わらずこの目でしか見れない状態であるのに、それをこの目が何かをすることで神の国

にいけると解釈したのだ。この目が本当の私を認識できると解釈したのだ。


しかし「本来の目」を覆っている過去が清算されなければ本来在る新たなる目は出現しないことだろう。

それは記憶が解消されなければ記憶によって覆われていた目は出現しないと言うことだろう。


ここから先の具体的な方法はホ・オポノポノでヒューレン博士が言っているのでそちらを見て下さい。

ヒューレン博士はそのことを分かり易く教えて下さっています。

ホ・オポノポノでは潜在意識にある記憶に対して許しを請い、愛を与え、感謝することによって、記憶から

解放されることが齎らされると教えておられる。

その記憶に対して許しを請い、愛を与え、感謝することがキリストの「汝の敵を愛せよ」であり、ミルダッド

「呪いしか与えない者へ祝福を与え返しなさい」ということだろう。


ここから先は私には経験もないし、まったく詳しくは知らないので

具体的な方法に関してはホ・オポノポノが教えているのでそこを参照して下さい。

最後になりますが、ミルダッドも同じように教えておられます

「大地との収支決算において残額が〈愛〉のみであるとき、大地はあなたを負債から解放するだろう。

〈愛〉はただ一つの執着からの自由だ。 すべてのものを愛するとき、あなたは何にも執着しない。

……人は〈愛〉によって、〈時間〉の車輪を止めることができる。

……それに達するのは、〈悔い改め〉によってなのだ」。と