私は記憶が見ているように見ている





このシェイクスピアの言葉は、

私達には考えられない、思いも浮かばない、想像だにできない意識があるのだ!

・・ということを示している。

人類が全く知らない思考を超えた高次の意識があるということだ。


そして、その全く人類に想像だにできない意識こそが私達にとっては未知なる意識

たましいと繋がる「記憶ではない私」である!

その「未知なる思考ではない意識」、それこそがあなただ!

・・・とシェイクスピアは言っているのだろう。


私達は思考と感情だけが知覚されているこの意識しか分からないし、知ってもいないので

誰も夢にも思わないことだろう。


・・・それは私達の内奥にあるたましいの意識のこと。

しかしながら、そのたましいと繋がる私の目は殆ど開いておらず思考と一体化してしまっている。

その私とは、シェイクスピアの言う「記憶が見ている様に見てしまっている私」のことだ。

この私とは、たましいと繋がっているが殆ど目が覚めていない私のこと。


この私達は肉体に入り、肉体の脳と結合してしまったがゆえに、肉体の知覚と一体化し

記憶と一体化しており、一生涯の間、記憶が命ずるままに欲望と自己満足の暗闇の中

で生き続け、そして肉体から去り、数え切れないほどの輪廻を繰り返していると言われている。



私とは本来は「分離を見ている記憶の私」ではないのに、自分を記憶と一体化しているが

ゆえに、世界と内部のことを記憶が知覚しているように分離して知覚している。

そしてそれが社会の常識となっている。


私達は記憶が考えているように考えている。

私達は記憶が行為するように行為してしまっている。


また記憶が見ている世界とは、「自分は他者ではない、自分は他者とは分離している」

世界であるけれども、それはあくまで記憶が見ている内部と外部であるに過ぎない。

記憶自身には国境もなく、年代もなく、人種の区別も存在していない。いつの世も同じだ。



「他人とは自分を映している自分自身の姿である」のに、自分が付けている色眼鏡

で他人を見ているということを理解しない。他者は私ではない、世界は自分とは関係ない

と・・その様に記憶の見解と一体化して思い込んでいる。



記憶が知覚しているように「世界は自分は別々だ」と見てしまっていて、万物は

自分と分離していて私なのではない、他者は自分ではないと知覚している。

その逆に「万物は私である」という知覚が内奥のたましいの知覚と言われている。


では、記憶ではない私、たましいと繋がっている私が見ている現実とは何だろうか?


それは、たましいと繋がっている私が眠っていて、これを問うている私が記憶である以上は、記憶

には理解出来ないことだろうし、記憶が知ることは、全て記憶であり、記憶以上ではない。


ただ人類の教師達によって「見るものは見られるものである」「観察者は観察されるものである」

というこの「たましい」の私から語られている言葉があるので、「殆ど眠っている私」にとっても

非常にありがたいことである。



記憶は「見るものは見られるものである」とは思ってもいないし、そう思ったことはないことだろう。

記憶は他者は私ではないと思っている。世界人類は一つではないと思っている。

たましいは世界は統一体で、分離していないと見ているだろうに、

記憶は自分と世界は分離していると知覚している。

記憶は私は世界であるとは全く思っていない。

また目の前のあなたとは私であるのに、あなたはわたしではない・・とその様に知覚している。


記憶は脳と一体化して、脳は自分の脳であり、自分は他者ではないと思っているからである。

この神聖なる個別の脳は神のものであり、指紋を見ても明らかなように個別性は私のものでは

なくて、この私という個別性こそが神のものであることを決して理解しようとしない。



記憶は「見るものは見られるものである」、「観察者は観察される者である」というたましいの意識の

事を知らないし理解出来ない。


がしかし、「私という観念である私達記憶」そして「殆ど眠っている私」にはそのことを理解出来なくても

「見るものは見られるものである」のであり、見ている記憶は見られている記憶なのであり、記憶は

人類で一つである。他者は私であり、世界は一つであることだろう。



それは自他に分離していない人類で一つの記憶なのにもかかわらず、この記憶は、『殆ど眠って

いる「たましいと繋がっている私」と一緒に、肉体に入り、脳と結合している』ので、この記憶(潜在

意識にある)はこの肉体のことを「神の身体であり、肉体とは神が与えた個別性のある神の宮である」

ことが解らず・・・肉体は自分のもの、自分の身体だ、と全く誤解している。



そして肉体を私だと思い込んでしまった、その記憶は、元々が無明であり、恐怖であり、二元分離

であるから私は相手と異なっているとそう思い込んだのである。・・・とそういうことであろうか?


肉体に入った「殆ど眠っている『たましい』と繋がっている私」は記憶ではないのだ。



私達は記憶である思考や感情や欲望や利己性や自己関心や自他の分離などではない。この知覚ではない!



「たましいと繋がっている私」はこの自己意識ではない。この記憶が見ているこの知覚ではない。そして、

今これを書いているこの私とは記憶の私であって、記憶に覆われている「たましいの私」ではない・・・・・

私、たましいと繋がる私は殆ど眠っているから・・・




ということをシェイクスピアは私達に語りかけているように思えて仕方がないのだが。