この私は幻想
ミルダッドの言葉から
「この私は幻想。
神から分離したこの人格の私は、新しく開いた目の幻想。
この幻想の自己は実体がなく、現実性もない。
それが生まれたのは人間がこの自己の死を通じて、本来の自己、即ち
神の自己を知るためである」
ホ・オポノポノと同じように言っている文書を見つけましたので紹介します。
「諸体が未形成のパーソナリティーには
なんであれ潜在意識の中に貯蔵されているもの(潜在意識の中に貯蔵されてある記憶)
を使う事が出来るだけです。
彼ら(私達のこと)は出来事が起きた後に出来事を生きます。彼らは出来事が起こっている最中
に出来事に参加することは出来ません。
参加し、生きるためには不定形の諸体に関するワークを行い、それを発達させ、完全に
再形成する必要が有ります」
また、シェイクスピアは次のようなことを言っております
「私達は記憶が見ているように見ている。
私達は記憶が恐れているように恐れている。
私達は記憶が行為するように行為している。
私達は記憶が欲するように欲している。
私達は記憶が思うように思っている。」
それ故に先輩はこのように言っています
「記憶が思っていること、記憶が行っていること、記憶が考えていること、記憶が欲していること
・・・というこれらの記憶の動きに目を凝らして注意していなさい。
この記憶の私は鏡の私ではなくて、鏡を覆っている記憶・人格です。
この私、この意識的自己は鏡を覆う記憶であることを本当に自覚し、本当に理解しているならば
ホ・オポノポノのワークを始めることが出来るスタート段階に達しています」
「私達がホ・オポノポノのワークを始めるためには、その前提条件として、まずはじめにこの私とは記憶の
反応であり、「自分は眠ってしまっている」ことを自覚し、視覚とは記憶が見ており、記憶が自己を判断し、
記憶が自己から逃避しようとし、記憶が他者を非難しており、記憶が悩みそして質問し探し求めており、
記憶が自分自身を私、自己だと意識しているのであって、色々と真剣に考え、思い心配しているのは、
私ではなくて記憶が思考しているのだということ。この記憶は私ではないということ。
行為とは記憶が行為しているということ、そして現在の私すなわち、この意識的自己とは記憶であり
わたしではないと言うこと。記憶は「たましいと繋がっているのだが眠ってしまっている私」では決してない
と言うこと。この行為して思考している私とは「たましいと繋がる私」を覆っている記憶であるということ。
この記憶が「たましいという大空」を覆っている雲であることを自覚する必要が有るようですね」と。
もちろんこれを書いているこの久保栄治という人格もこの記憶であって鏡の私でありませんし、その
「この意識的自己である私とは記憶の反応である」という自覚も認識もありません。
おそらく「この私は記憶である」と言う自覚は「眠っている私」が朧気ながら目を覚まそうとしている・・
と言うことなのでありましょう。しかし久保栄治という人格は記憶の反応であるという自覚は訪れては
いません。ミルダッドはこの「眠っている私」が目覚める為には記憶が死ぬ必要があると教えています。
ホ・オポノポノ的に言えば記憶がカットされると言うことです。
そして記憶が私から脱落するためには、記憶に愛を注ぎ感謝する必要が有るというのです。
記憶という雲が去り、晴れ渡った大空というセルフアイデンティテーを透して輝く太陽が現出するには、
潜在意識の中にある記憶の浄化と言うホ・オポノポノの方法があっている人には良いかもしれ
ません。
(進む道は色々とあり、その人の道はその人にあった道を進むほうがベターです)
(仏教で言えば禅宗に合っている人、真言密教に合っている人、浄土真宗に合っている人など
様々ですし、世界にはいろんな道があるので自分に合った道を進まれるのが良いと思います)