私が生きている目的
先日、先輩を訪問して先輩から教えられたことをここに紹介します。
『私が生きているのは、なんのためなのか?
それは
私は私に出逢うためにこうして生きている!!こうして転生している。
私は私に出逢うために、こうして多くの無数の身体に宿り、生まれ、そして生きてきているのだ!
幾度となく殺し殺され、病魔に冒され鉛のような足を引きずって喘ぎながら冷たく凍り付いた暗い荒野を彷徨ったことか。
私は私に出逢うために生きている・・この苦しんできた私は本当に私なのであろうか?それとも記憶なのだろうか?
この表面意識を覆っている「久保栄治という人格」は、記憶の反応であって、「たましいと繋がっている私」
なのではない・ということ。この愛のない苦しむ私は「たましいと繋がっている私」を包み込んでいる私である。
包み込む私がいると云うことは、包み込まれる「私」がいることを証明しているのである。
たましいと繋がっている私であるならば透明な意識であり、大空のように透明な空であり、そこには太陽
が輝いていることだろう。
この脳と一体化している私とは記憶なのであって意識ではないことだろう。
この「記憶の私」とは思考であり、意識ではけっしてない。これに反して「たましいと繋がる私」は際限なき
意識そのものであり、その意識は「思考でもなく、記憶でもなく、遙か肉体を超えて、かつ固定した視点
なく愛の目で見ている」ことであろう。
その魂の私は「万物である私」であることだろう。しかし、記憶に一体化し覆われてしまっている。
「私は私が見ているように見てしまっている」・・・これはシェイクスピアの言葉であるけれども
これは一体全体何を言っているのであろうか?どういう意味であるのか??シェイクスピアがここで言う
2番目の私とは脳で受信し形成された記憶であり、それは私ではなくて私を詐称する記憶なのだ。
記憶の反応が思考であり、私であり、その思考が「魂と繋がる私」を覆う記憶・自己意識なのである。
真実とはこの2番目の私とは記憶であり、2番目の私とは存在していない架空の私であり、私達人格は
架空のもの、大生命のお造りになった「大生命の脳」が生み出した虚構であるのである。
ホ・オポノポノの解説図では非常に分かり易くこの辺のことを私達に教えてくれていると思う。
私とは、何であろうか?この複合している私をホ・オポノポノの観点から大雑把に見てみよう。
①神聖なる存在と一つである、本来の「たましいの私」。内奥の未知なるすべてとひとつである私。
②そのたましいの私と現在の私を繋いでいる輪廻転生している「原因である私」コーザル体の私。
③表面意識の私(ただしこの私はシェイクスピアが言うように本来は透明であるのに眠りこけており
潜在意識にある記憶と一体化してしまっている)新しくたましいから誕生した目のこと。
④表面意識を支えている潜在意識の私
⑤その潜在意識の中にあっていろんな記憶から構成されている私。エゴの私。
(この⑤の私が私達の意識しているこの自己意識といわれる思考である「人格の私」のことである)
ざっと見わたしても、この五重の私で構成されているのが私達であろう。大変に複雑なのである。
そして、今これを書いている久保栄治の自己意識とは意識ではなくて思考の反応、⑤番目の記憶の反応である。
本来は「透明で空である表面意識」を覆っている記憶が、この私である。「私は久保栄治だ」と・・そう思い、そう言
っている私とは⑤の記憶なのである。だからこの記憶の私のあり方が非常に重要なことになるのではないか。
たましいと繋がっている私は記憶の私が見るように見ており、記憶の私が考えているように考えてしまっている。
「たましいと繋がる私」は「記憶の私」が思うように思い、そして記憶の私が行うように行ってしまっているのである
と言うことであるのだろう。だから「たましいと繋がる私」が目覚めていない以上は、記憶の私のあり方が
「たましいと繋がる私」のあり方となってしまうのである。
それは即ち、その「たましいと繋がっている私」は記憶の私が思い行うことに対して当然責任を持つことだろう。
記憶の私は、私を構成している潜在意識の中にあるからであり、皮膚のように一体化してしまっているからである。
「たましいに繋がる私」は「記憶の私」が行い、見て、思っているように、その様に行い、見ている・・・。
それ故に、その記憶が見ていることも、思うことも、行うことも、「たましいと繋がる私」が見て、行って、思う事となるのである。
記憶の私が行うことは「たましいに繋がる私」が行っているのであり、「たましいに繋がる私」に責任が生じるのである。
たましいに繋がる私は、現況では眠ったままであり、目覚めておらず、意識は生じていないので、記憶(思考)と完全に同一化して
いる以上は記憶が行う行為と、記憶が見ることや、思うこととは、たましいの私が見ていることでありその責任を負うことだろう。
記憶の私は太陽神経叢の潜在意識にあって、潜在意識が行っている身体の行為や身体の状態をコントロールしているのである。
繰り返すけれども、「記憶の反応である私」の行うことや見ることや思うこととは、「たましいと繋がっている私」・・即ち現在のパーソナリ
ティーの責任なのである。
表面意識である「たましいと繋がる現在のパーソナリティー」と記憶の私とは、この現在のパーソナリティーが目覚めていない現状
では、一体化していて、混合している状態であり、この「記憶の私」が思うことと行うこととは、「たましいと繋がる現在の私」が
思うこと行うこととなる。・・・だから「記憶の私」の行うことと思うことには細心の注意が必要なのである。
眠ってしまっている「たましいと繋がる私」を構成している潜在意識の中に記憶の私はいるので、その記憶の私と
一体化している「たましいに繋がる私」には、記憶が起こす行為や感情や思いには責任がある。
それゆえに
私達、眠っている私達は、「記憶の私」が、行うこと、考えることに注意し、見ていることに最大限の注意をしなけ
ればならない。「記憶の私」に感謝して、「記憶の私」を愛さなければならない。
私達が他人にしていることとは、自分にしていることなのである・・・この「記憶の私」は、自分が他者の鏡に自己を
投影していることを理解しないで、他者を非難したり、苛めたりしている。「他者にしていることは自分にしていること」
「他者の姿とは自分の姿である」ということに全く気が付かないからである。
私が踏みつける蟻は私なのである。
私達が目覚めるためには記憶の私と共に全てを愛し、全てを許し、全てに感謝しなければならない。恩寵が必要なのである。
今現在のこの五感や思考や知覚とは脳のものであり、脳の機能なのである。この五感も知覚は決して現実を見ているのではない。
この私達の五感や知覚や認識とは肉体に入った私達である「たましいと繋がっている私」の感覚や知覚や認識なのではない。
この私達が見ている私自身も、世界も、地球も、内部も、外部も条件付けられている脳が見ている世界であり自分の姿なのである。
記憶が自分と「自分が投影している世界」を見ているのだ、それは決して「たましいと繋がる私」の見ている内部や外部ではない。
と言うことだろう。』と
・・・このようなことを先輩は言っておられた。