思い違い


昨日は私の親しい友人宅にお邪魔して、「私の思い違い」と云うことについてお話をさせて

頂きました。



私:お久しぶりです。お元気ですか?今日は私達の自由意志について、色々とお話ししたくてお
  伺いしました、よろしくお願いします。

友人:自由意志ですか?
    自由意志に関しては私達は、自由意志を持っていて、自由意志で人生を生きていて、
    自由意志で人生を選択していると誰もがそう実感しています。
    私達は自由であるから、何を思おうとも、また何をしようとも、法律の範囲内であるか
    ぎりは許される・・とそう思っていますよね。
    私達は全く自由で自由意志で自分の人生を生きているのだと思っていますが、その自
    由も自由意志は「全くの思い違い」であると、多くの教師の方々が言っておられますが
    久保栄治さんはどう思いますか?

私:いや、私は勿論、自分が色々と経験して、学んで今までこうして生きてきたと思っていますし、
  生かされていて有り難いと思っておりますし自由意志で自分の人生を生きてきていると感じ
  ていますね。

友人:そうですか・・。それがごく一般的な考えでしょうし、世の中の常識でしょうね・・・。
   しかしながら、多くの教師の方々は、私達のその自由意志とは、私達の自由意志では無くて
   私達の潜在意識を占有している記憶が持っている意志であり、その記憶が潜在意識を動か
   していて選択をし、決断させ、思わせ、行わせている・・・と言っているのです。
   その記憶の圧倒的な容量とパワーで私達は完全にコントロールされていると言うのです。

私:う~んとなると、行為の責任はその記憶にあるということになってしまうのではないでしょうか?

友人:そうですね、しかしながら、それをそう言えるのは記憶では無いあなたであって、記憶である
    あなた、即ち人格のあなたはそう言うことは出来ませんよ。

    ここで注意して頂きたいのですが、もしあなたから記憶が脱落し、記憶から解放されて自由
    で有り、思考ではなくて高次思考で見ることが出来、感情も高次感情で万物に愛情を持って
    接して、あなたは目の前の人と分離がない様な高次の意識状態であるのなら、「行為は起こ
    っている」「行為の責任はわたしにはない」と言えましょう。けれども
    、そう言っているのが人格の私、即ち記憶の私であるのなら、その行為の責任はそう言って
    いるあなた、即ちその記憶である久保栄治さんという人格にあります。そして、その責任、そ
    れは結局、記憶の人格と同一化している顕在意識のあなたにあります

私:そこが印度を中心にした安易な不二一元論をうわべだけかじった若者が狂ってしまう落とし穴
  かも知れませんね

友人:そこをしっかりと把握しておかないと、まさに不二一元論を唱えながらも、反対のことをして
    しまうのです

私:その点、聖書を深読みできれば、聖書の方がこの記憶の人格に対して語りかけているので
  よく分かりやすいのかも知れませんね

友人:ともかく私達の知性若しくは「顕在意識」は、この知性が解決に導き、自分たちが体験をコ
   ントロールしていると思っているのです・・・が、
   それは思い違いであってこの知性の意志決定とは、知性が意志決定をする以前に記憶によ
   って意志が決定されていることに私達の知性は全く気が付かないのです。
   私達の知性が知覚していることというのは、潜在意識の無意識で記憶が決定していて、それ
   をその後に私達は自分が知覚して、そうして自分が思考して決定したと思い込んでいるのです。
   しかし記憶は、この顕在意識の何百万倍という情報量を持っているので、私達の顕在意識は
   潜在意識にある記憶の選択や自由意志することに全く関与できないのです。

私:そうすると、私達は私達の潜在意識の中にある記憶によって既に決定され選択していることを
  自分の自由意志で決定して選択したのだと思い違いしているわけですね

友人:そうではありませんか?それは表面意識の思い違いなのです、久保栄治さんはどうおもいま
   すか?
   私達の表面意識は記憶が命ずるままに振る舞い、怒り、不安になり、嫉妬し、恋愛し、結婚し
   感じて、考え、決断し、体験し、そして肉体の死によって肉体から離れるのです。

私:それは多くの覚者が教えていることですね。


友人:私達とは本来は透明な鏡なのです。ですから鏡に映った記憶の姿を自分自身だと錯覚して
    しまっているのです。私達は分離している記憶では無く、また人格でもないのです。


私:それでは私達、霊魂と繋がる現在のパーソナリティー・顕在意識と潜在意識とは本来は透明であり
  空であり、決して記憶の私、即ち人格の私ではないと言うことなのでしょうか?

友人:私はそう思いますよ。多くの人類の教師が色々と言葉を変えて云っておりますけれども

    「霊魂と繋がる私達即ち顕在意識と潜在意識は、自らは発想したり、思索したり、思考したり
    感情を持って欲望したりすることはなく、行動することもありません。これらの人格の全ての
    体験や経験は記憶が行っているのです、というのも人格こそ記憶だからです。」・・・と。


私:そうですか・・。う~むでも実感はできませんね・・・


友人:そうですよね、その実感していないあなたこそ記憶であって魂に繋がるあなたではありません
   から。その今話して感じているあなたとは魂の表面意識を覆っている記憶なのです。

   「要するに霊魂や霊魂に繋がる顕在意識や潜在意識のあなたは体験をすることはなく、行為を
   していないと言うことなのです。
   行為をしているのは記憶なのです。
   霊魂と繋がるあなたは記憶が見るように見てしまい、記憶が感じるように感じてしまい、記憶が
   振る舞うように振る舞い、記憶が決断するように決断していると言うことなのです。
   あなたが私だと思っているのはあなたではなくて記憶の反応なのです。」と言うことですよね。


私:余りにも常識とかけ離れて、また教育や文化や哲学や宗教とも全く異なっているので、にわか
  には信じられませんし、その様な考え方が世の中にあること自体が驚きです。

友人:信じる信じないのはあなたの勝手ですし、それをどう思おうと思っているのは記憶のあなたです。
    しかし真実は信じようと信じまいと、認められようと認められまいと関係ありません、それは真
    実なのですから、真理や真実はあなたや私の評価や判断に依存しません。
    思い違いをしているのは、あなたという、その記憶なのですから。


私:有り難うございました。又遊びに来ます

友人:気楽に来てくだいね、お待ちしています。一緒に学んでいきましょうね。