私だと思っているのは誰か?
日常生活の中で、誰もが全く思わないであろう質問、それは自分自身に対してする質問
「この私は誰か?」でありましょう。
・・それに対しては、「これは、まったく当たり前で自明なことであるのに、今更なんでそんな
ことを思ったりするのだろうか?」と訝かれることでしょう。
・・・この自分自身に対する質問・・それは「この私とは誰なのか?」この私は本当に私なのか?
という誰もが思わない質問でありましょうか。
ではその質問とは具体的には・・つぎの様になります。
「私は肉体であり、肉体は私であり、私のものだ」と思っているこの私とは誰でしょうか?
「この人生は自分の人生で、私が生きている。この私が私だ」と思っているこの私は誰でしょうか?
「行為は私が行為しているのだ」と思っている私、「私の自由意志で行為しているのだ」と思っている私、
その「私の自由意志」とは誰の自由意志なのでしょう?
・・・それは、行為によって生み出された私即ち記憶の自由意志なのではないでしょうか。
「五感は私のものだ」と、思っているのは誰でしょうか?
・・その私とは五感によって生じた私、即ち記憶なのではないでしょうか。
「脳は私のものだ」と思っているのは誰でしょうか?それは脳によって生じた記憶なのではないでしょうか。
「この私は私であり、自分のものだ」と思っているのは誰でしょうか?
それは脳を媒体にして受けとられた思考の記憶なのではないでしょうか。従って、これを書いているこの私
とは記憶であり、私ではないのでありませんか?もし私であるならば喜びであり喜びに満ちあふれているか
らです。もし私であるならば感謝であり感謝に満ちあふれているからです。もし私であるならば愛に満ちあ
ふれているからです。
「知覚や統覚は私のもので、私が知覚し、私が統覚している」と思っているのは誰でしょうか?
私は眠ったまま肉体に入ったので脳の知覚や統覚を自分の知覚だと錯覚しているのではありませんか?
「思考や記憶や感情は私のものだ」「私が思っている、私が怒っている」と思っているのは誰でしょうか?
その私は私なのでしょうか?それは行為と同じく思考や記憶によって生み出された記憶の反応なのでは
ないでしょうか?心配し不安に怯え、将来を案じているのは私ではなくて記憶なのではないでしょうか?
記憶が自分自身を私だと思っているのではないでしょうか?
この「私自身を私のものだと思っている」のは誰でしょうか?
「私が生まれて、私が老いて、私が病気して、私が死ぬ」と思っているのは誰でしょうか?
その私は「万物である私」ではないことはハッキリしております。
その私は「歓喜・愛・感謝」ではないことはハッキリしております。
「自他は別々だ」「私は他人ではない」とその様に実感しているのは誰でしょうか?
それは私という観念なのではないでしょうか?
そしてその記憶が「私は分離している」と実感しているのではないでしょうか?
他人を自分と区別して見ているのは私を名乗る記憶なのではないでしょうか?
思考や感情や記憶や意識はこの私が生み出したのでありましょうか?
思考や感情や記憶や意識がないときにはこの私はあるでしょうか?ないのではないでしょうか。
肉体や脳と同様に思考や記憶や感情や行為や意識はこの私のものではなく
その全く反対に肉体の脳が受けとった思考や感情や行為や意識が「万物と分離していると思って
いるこの私」の正体であるのではありませんか、何故なら「魂と繋がる私」は、眠ったまま肉体と
繋がっていて目が覚めていないので、その眠っている私は、覆っている記憶と同一化していて
肉体の脳が眠るときには記憶も眠り、そして「魂と繋がる私」も一緒に眠ってしまうからでしょう。
もし、この「魂と繋がっている私」が目覚めていたのなら、脳が眠っていることを、観ていること
でしょう。
分離している私(即ち記憶)がいるときには、この限定された思考よ知覚と認識があり、自他の
分離知覚がある・・・ということは、思考や感情や記憶や行為や分離知覚がないときには、この
私はいないのではありませんか。
この分離している私、私の思考だと思っている私とは、私ではなくて記憶なのではありませんか?
この私は思考であり、感情であり、記憶であり、行為でありこの限定されている分離意識であって
思考がなく、感情がなく、記憶が無く、行為がないとき、この限定されている意識がないとき、この
私はいない。実在の私があることでしょう。本当の意味でのあるがままがあるがままにあることで
しょうl。
しかしながらそのあるがままとはこの分離している意識には知覚も認識もされないと思います。
この限定され分離していると思っている私とは起こっている思考であり、起こっている感情であり、
起こっている記憶であり、起こっている意識であり、そして起こっている行為でもあることでしょう。
そしてこれら思考、感情、記憶、限定された知覚、分離していると思っている私、行為・・
それらは起こっているのであって去来しているのものであると教えられております。
起こっているものではない実在、去来している既知なるものではない「実在」の私は
この「自他が分離していると実感している私」ではないと思います。
この実在の私・・それを神道では鏡と称されております。