正しい修行
今日は身の丈知らずに以下のように思索してみました。
正しい修行とは何でありましょうか?
それは自己が消滅し、ゼロになり、透明となり、大空になることでありましょう。
「分離しているこの私・人格」が鏡から脱落し、根源に帰還するということでもありましょう。
それは即ちアダムが神の元に戻ると言うことでありましょう。
それはまた禅の十牛図に詳細に説明されているように大元・根源に帰一するこ
とでもありましょうか
では人格・自己が消滅すると言うことはどういうことでありましょうか?それは鏡を覆っていた
この私が脱落して、「鏡である私」から「人格の私」という覆いが消えて無くなり、万物が私であ
るという「本来の私」・根源が輝き出すということでありましょうか。
勿論、ここでそれを述べているこの私とは「本来の私」ではなくて、「本来の私」を覆い包んでいる
思考の記憶なので、この人格の私には「本来の私」のことは知るよしもありませんし、認識する
こともありません。
では根源に戻るとはどういうことでありましょうか?また、どうすれば良いのでしょうか?
それはこの私を礼拝すること。私を愛すること。私に感謝すること。私を尊敬することでありましょう。
ではこれをしているこの私とは?・・それは
この私、目の前のあなた・他者として現れている私、又心の中で現れ、苦しんでいる私・記憶であり
それは同時に「新しく開いた目の私」のことでありましょう。
一番大切なことは全力を傾注してこの潜在意識にある「私の記憶・人格」を愛すること。この迷える私
自身を愛する事。この記憶の私に感謝して、尊敬すること。この私とはそれら記憶の私であり、そしてこの
あなたである私(あなた)を愛し、感謝すること。愛する者が愛される者と一つになるとき奇跡が起こる
と言われております。自我と一体となっている「新しく開いた目の私」が自我を愛するとき奇跡が起こるの
でしょうか?
おそらくここのあたりがキーポイントになるのではないかと思われます。
では、その愛される私とは誰でしょうか?私を愛している私とは誰なのでありましょうか?
では逆にその「私とは誰なのかと質問している私」とは誰でしょうか?
それは自己を分離させ、自己を思考で理解出来ると思っている記憶であり思考であることでしょう。
記憶は記憶や思考に依って私を理解し、知ることが出来ると思い、情報や知識や分析によって自己を
理解出来ると錯覚しております。そして自己を自他に分割し、思考を私だと錯覚しているのでしょう。
記憶自体は潜在意識の奥底では人類がみな同じ記憶なのに、いろんな私に自らを分割し、私を自他に
分離させているのではありませんか?
その記憶が、この私・人格の正体なのではありませんか?
記憶・人格とは鏡である私の自由意志が生み出した思考(想念形態)なのではありませんか?
記憶が目の前の私(私を苦しめるあなた)の事を私ではないと錯覚しているのではありませんか?
そして、記憶に覆われた「新しく開いた目」である私は、この記憶の私・人格と一体化している
のだと言われております。
また記憶が自らである暴力や恐怖や利己心や高慢や不安を「それは私ではない、私が見ている
対象」だと錯覚しているのではありませんか?
私とは目の前の親であり子であり、妻であり夫であり、上司であり、私を苦しめる私、すなわち敵であり
問題のあるあなたであり、同時に心の中の私であり、目の前の全ての私が私なのではないでしょうか。
それが私によって作り出されたのが人格。記憶、想念形態、エレメンタルなのではないでしょうか?
「恐怖に苦しんでいる私」「悩んでいる私」「利己心と競争心の塊の私」「人を利用し、神を利用して
到達しよう、何かを獲得しようとしている私」「私を苛めている相手を自分自身だと知らずに相手を
非難し、説得しようとしている私」「心の中の自分を観察している私」「自分を憎んでいる私」「自分を
恐れている私」「相手が自分だという認識がないままに相手を憎み、知らず知らずのうちに無意識で
暴力を振るっている私」「好色の私」「何かになろうと常に動き回っている私」「恐怖から逃げ回ってい
る私」「自己愛に溺れている私」「自己非難している私」「自己憎悪している私」「見返りを求め、効果を
期待している私」・・・・等々
・・・・これらの私、「あなたという私」即ちこの私のことを心から愛し、心から尊敬し崇め、感謝すること。
・・・・内部と外部で起こっている出来事をつべこべ言わずに全てを受容し、全てを愛し、感謝すること、
敬うこと。
これこそが正しい修行であり、私・記憶から解放されていくプロセスの一つなのではないでしょうか。
・・・蛾が夏の燃えさかる炎に近づき焼け死んで消えていくように、愛の中で、「自分自身を許し、愛し
感謝する」ことによって、すなわち自分を愛することによって私・自己・人格が脱落していくという奇跡
が起こるのではないでしょうか。
・・・と未熟な私は偉そうに思索しております。