虚偽からの解放
虚偽を虚偽と観ることが虚偽からの解放をもたらす・・・
・・と人類の教師は言う。
・・虚偽を虚偽と観ることが既知からの解放をもたらす・と。
ではこの人類の教師が言う虚偽とは何だろうか?虚偽を観るとはどういうことなのか?
虚偽とはこの私のことであろう。日常生活で生きているこの私とは、私ではなくて思考の
記憶だというのだろうか?
また虚偽を観るとは、記憶で観るのではなくて、「観ることとは起こることである」、ということであろうか。
虚偽とは思考が自分自身を私だと思っているのに、私が思っていると思っていることではないだろうか。
思考している私こそ、思考なのであって、私ではない。この思考している私とは記憶なのであって私ではない・・
ということだろう。ミルダッドによれば思考の私ではない真実の私であるならば万物と一つだというのだ。
ミルダッドは言う
「この私は幻想、神から分離したこの人格は、新しく開いた目の幻想、この幻想の自己は
実体がなく現実性もない。
それが生まれたのは、人間がこの自己の死を通じて、自己本来の自己、即ち神の自己を
知るためである。この幻想の自己は外の目が眩まされ、内なる目が輝かされる時には
消え去る」と
ではこの思考と言う幻想の私からの解放を求め、その方法を探し求めている者は誰だろうか?
この方法を求め、自己からの解放を求めて思考し、その方法を実践している者は誰だろうか?
それは同じく、幻想である私、私ではない私、思考の記憶なのではないだろうか?
本来の自己であるならば、「私は在る」ということだろう、
自己を探し求めたり、自己からの解放を求めたりしないからである。
人類の教師は「探し求め、情報を集め、そして質問し、考えて思索を続けているこの私」こそ
この幻想の私、思考の記憶であり、その記憶のわたしとは記憶であり私ではない・と「虚偽を虚
偽と観ることが虚偽からの解放を齎す」・・・と言っているように思える。
しかしながら
グルジェフはこれを頭で知るのと、心底の奥底から領解するのとは全く異なるといっていたが
久保栄治は決して理解しているわけではない。単に思考しているだけで、このことを領解し実感してい
るのではなくて、知識として話しているに過ぎない。
ここで、これらの禅的なアプローチとは別に、浄土真宗のようなヒューレン博士の推奨する「ごめんなさ
い、許してください、愛しているよ、ありがとうございます」と唱えることも正しい道の一つであるように思ったりする。
ごめんなさいとは・・・新しく開いた目が、人格の私、即ち思考の記憶の反応のことを自分だと信じ込んでしまってい
ることを謝ること。即ちこの記憶の私を「本来は鏡であり透明であり、思考ではない表面意識の
私自身」だと錯覚してしまっていることを、潜在意識やたましいや源泉に向かって「ごめん
なさい」と謝り改悛することだろう。
許してくださいとは・・・同じく新しく開いた目である、現在のパーソナリティーが、現在のパーソナリティー自身は
意識であり、空であり透明であって、思考の記憶の反応ではないのに、自分は思考であり、
その思考の反応として起こっている行為を自分が行為していると、又思考の記憶と同一化し
錯覚して「思考の私」を自分だと思ってしまっていることを、表面意識である私自身と、潜在
意識とたましいと源泉に向かって許しを請うているということだろう。
愛しているとは・・・この新しく開いた目のわたしとはたましいと繋がり、源泉と繋がっているので愛することが出来るし、
愛そのものであり、すべてを愛しているので、本来の私に戻って愛します、愛を与えますよと愛を
実践すること、全てに愛を捧げることだろう。
その愛する相手とは、他ならぬこの私、「汝の敵を愛せよ」といわれるこの私・記憶のことであろう。
愛する相手とは、この新しく開いた目の幻想の自己・・即ち記憶の私・人格であることだろう。その
記憶の私とは「新しく開いた目の私」が生み出したからである。
それはまた、同時にこのたましいから生まれた新しく開いた目、未発達な現在のパーソナリティー
である私のことでもあり、そしてこの現在のパーソナリティーである潜在意識であり、その潜在意識
が繋がっている人類の潜在意識であり、たましいであり、源泉であることだろう。
ありがとうございますとは・・・この新しく開いた目が悔悟と改悛と愛と感謝を根源に捧げ、全てをあらしめ、生かしてお
られ、また全ての全てであり、同時に全ての全てとして生きておられる根源に対して、感謝すること
ではないのか
この「南無阿弥陀仏」と同じようなこの真言は、
たましいとは繋がってはいるけれども、未だ目が閉じられていて意識が働かない私、
シェイクスピアによって「私は私が思うように思い、行うように行ってしまっている」と指摘される未熟な私、
「たましいの新しく開いた目である私」
思考の記憶と一体化してしまっている私
即ちこの未形成な表面意識である現在のパーソナリティーにとっては「正しい行」であるように思える。