真言の力



ホ・オポノポノではないが、又ホ・オポノポノに限らず、言葉の持つ力は偉大なのでありましょう。

それは別に、ある宗教に限ったことではなく、それはまたある哲学や教えに限ったことでも

ないと思います。空気や太陽や身体や心や意識や個別性や私とは、私やあなたのものでもなく

ある宗教の独占物ではないように、真実・真理とは特定の宗教や教えや理論ではなくてあるが

ままの現実なのでありましょう。


ただ記憶の知覚によるこの現実・あるがままとは見ているその人による、その見ている人の現

実なのであって決してあるがままの現実ではないということでありましょう。

(真理の目が目覚めないかぎり、マトリックス・幻想世界の私が幻想世界を生きているのでしょうか)


私達が見ている内部や外部や世界とは、そして私やあなたとは、決してあるがままの現実では

なくて、見ている私達(記憶)の中の現実なのであるということでありましょうか。

(私達が見ている内部と外部の世界とは条件付けられている脳が見えている世界を見ているので

しょうか)



自己観察に於いて観察されている私とは観察している私のことであり、あるがままなのでは

ないと教えられています。記憶が記憶自身を見ているのですと。

また他者観察に於いても観察されている他者とは観察している私のことであって、他者自身

ではなく他者のあるがままでもないと。記憶が見ている他者とは見ている記憶自身の姿なのですと。




この人類の限定された知覚と認識においては、見ている主体、即ち見ている私・自己とは、

記憶なのであり、この記憶とは決してあるがままを知ることもなく、あるがままを見ることもなく、

記憶の中でお喋りを続けているのであって、その思考の記憶が、内部と外部に見て知覚して

認識しているのでありましょう。この知覚し、知覚されている私や他者とは、思考であり記憶そ

れ自身ではないでしょうか。

ですので「あるがままの本当の私」とは、この記憶にとっては未知なるもの「知られざる私」な

のであって、私とは記憶というこの知覚や思考の私では知ることが出来ないのでありましょう。



さて本題に戻って言葉の力ですが

それは懺悔、許し、愛、感謝でありましょう。この未知なる「知られざる私・万物である私」を覆

い包んでいる記憶(記憶の私)が脱落するためにはどうしてもこの真言が必要なのです。

懺悔、許し許されること、愛すること、感謝すること・・これらを言葉にすると「許し給え

清め給え、幸はえ給え、愛しています、ありがとうございます」となることでありましょう。

・・これが真言なのではないでしょうか。


通常はこの記憶・私は他者を「自分自身なのに他者として」見て知覚して、認識していることでしょうし、

その記憶自身・私が、記憶である自己自身のことを自己批判したり、自己から逃避したり、自己を分

析したり、自己を非難したり、自己を憎んだり、自己を欺したり、自己を鍛錬しようとしたりして体験し

経験し、考え、行為し、生きておりますが、重要なことは

ただただ記憶・私に対して「懺悔すること、許すこと、愛すること、感謝すること」なのではないでしょうか。

「ごめんなさい、許して下さい、愛しています、ありがとうございます」と記憶(私)語りかけることが

本当に大切なことなのではないでしょうか。


そして私を許すことは私を認め、私を愛することであり、愛することが恩寵と繋がって、この私(思考・

記憶)から解放されることが起こるのではないでしょうか。


・・・と、偉そうに思索してしまいました。


皆さんはどう思われますか?