薬物依存症
今日は薬物依存症について考えてみました。
薬物依存症と、ひとことでいっても、色々とあり、その薬物の使用に関しては医療関係での
治療で使用されることは可とされていて、それは薬物依存症ではありません。
例えば末期の癌患者や、外科手術の際には欠かせないものでありますので、依存症は
それとは異なっており、その薬物に依存してしまって抜け出せないでいることが世間では
薬物依存症といわれています。
では人は、何故薬物に依存してしまうのでありましょうか?それは薬物が苦しみからの一時的な
逃避を実現してくれて、いっときの「満足」や「幸福」や「開放感」を与えてくれるからでありましょう。
又いっときの間、知覚が拡大したり、至福感、などの、脳が本来の働きをもたらす事を起こすのかも
知れません。しかしながら、この肉体の脳と繋がった私たちの状態が幼稚でただ記憶に流され、
意識やマインドを使用することが出来ない状態であれば、その薬物は本当の解放や自由を与え
てはくれません。この私(記憶)の根本的な分離感という知覚や認識からの自由は望むべきもあ
りません。その分離を「知覚している私(記憶)」からの解放は薬物では為されないのです。
薬物の効果によって脳は一時的な知覚の拡大をもたらしてくれますが、薬物の効果が消えれば
脳は又、元の状態に戻り、肉体に入った「現在の私」のレベルに戻ってしまいます。肉体に入った
私達は殆ど目覚めておらず自分が持っている心を使用していない状態なので、常に脳を通じた
錯覚だけを見ている記憶の私、分離した観察者である私にまた戻ってしまうことでありましょう。
しかし実は、この薬物依存症の私とは、この世間で言われている薬物の依存とは違った形で、もっと
深刻な形で既に私達が薬物依存症に陥っているのではないのか!と言われています。その薬物とは
記憶なのではないでしょうか?!!
私達は実は記憶に汚染されております。にもかかわらず私達は「記憶という薬物」の依存症であること
に気がつきません。
肉体に入った段階で私達は既に「薬物」に汚染されてしまっているということに私達は気が付かない
のでしょう。
ですから、実はこの麻薬依存症とはとりもなおさず私達自身のことであります。心を使用せず思考に
流され続けているのですから。
私達は「薬物」に依存していて「薬物依存症」のまま生まれ、そして死んでいくのではないでしょうか?
ではその「薬物」とは何でしょうか?それは「記憶」即ち「思考」にほかならないのではないでしょうか?
私達は透明な意識であるにもかかわらず「記憶」によって混濁してしまっていると言われています。
私達は心を使うことが出来るのに、記憶と同一化してしまい心を使っていないのです。
ではその潜在意識にある記憶とは何でしょうか?
それは「私が見ている目の前の相手とは自分自身を写している自分の姿」であるのに、その相手を
非難したり、そしてまた自分の心に浮かんでくる恐怖や憎悪や暴力や喜怒哀楽、それらは自分の
心の中の記憶を写しており、記憶から浮上しているのに、それに耳を傾けることもせず同じように
非難し続けています。非難ではなくて、許し、愛することが心には出来るのではないでしょうか?
また、記憶は自分の姿を相手に移して、相手の鏡に映っている自分を非難しているのです。
非難しているのは相手ではなく私自身なのではないでしょうか。
その「記憶」こそ麻薬であり、私達は生まれたときから麻薬に汚染されて生まれてくるのではありま
せんか?
その「記憶」が私達の中にあるので、私達は「記憶」を自分自身だと錯覚して、記憶の意志や欲望を
自分の欲望や意志だと思ったり、記憶である思考を自分の思考だと錯覚していますし、「記憶」の知覚を
自分の知覚だと錯覚して、死ぬまでその「記憶」の奴隷で過ごすわけです。そして更に死後のあの世でも
私達はその記憶の奴隷状態で過ごすのだと言われております。
「パワー」や「超能力」や「悟り」を探し求めて、世界を巡礼し、グル探しをして、自己実現の願望に
捉えられ振り回されているのは、「意識である私」自身ではなくて「記憶」なのではないでしょうか?
苦しみや恐怖や不安やイライラやどうしようもない心の葛藤からの解放や安らぎを求めて祈願し
願望成就の為に手を合わせて祈っているのは「私達意識」ではなくて「記憶」なのでしょうか?
相手を尊敬しないで軽蔑したり、非難したり、相手を利用しようとしたり、自尊心や高慢や自己関心に
塗れている私・自我とは、私達ではなくて「記憶」なのではないでしょうか?
満足や幸福を追求し、お金の奴隷になってしまっているのは私ではなくて「記憶」なのではないでしょうか?
理念や目標と目的を持ち、自己実現を求め、学び、努力している私、自己からの解放を願っている私こそ、
私達ではなくて「記憶」なのではないでしょうか?
何かに成るために、何かを得るために努力し、間違った瞑想をしているのは、「記憶」なのではないでしょうか?
その「記憶」こそ麻薬であり、私達は記憶に取り込まれてしまっている(記憶)麻薬依存症なのでしょうか。
このような「記憶」の究極は、それは満足すること、支配すること、拡大すること、神になることであり、それ
は、また悟りを得て苦しみや恐怖やそして自己自我からの解放であることでありましょう。その至ろうとし、な
ろうとして、探し足掻いている私こそ「意識である私」を汚染している記憶なのではないでしょうか。
それらは、みな同じく「自己からの解放」を求め、「自己自我の死」を経て神のようになろうとしている私・自我
・・即ち潜在意識にある「記憶」の動きに他ならないと思えます。
・・・・思いつくままに書いてしまいましたが・・実は勿論、私はこのように偉そう言える段階ではありません。
現実のこの久保栄治は泥まみれで記憶に汚染されているのですから。依然として目は閉じられたままです。
グルジェフは確かこのように言っていたと思います。
「目が開くためには、死ななければならない。
死ぬるためには恩寵が起こらなければならない。
恩寵が起こるためには、観察者をあるがままに判断なく凝視しなければならない」
と。
どうやらキーポイントは
観察者を暖かく凝視すること、即ち「見ている私」(記憶)を愛することのようです。