この神の宮である肉体に入ったわたし
私達は肉体ではなくて、肉体に入っている意識です。肉体が私ではないです。意識が私達です。
私達は表面意識だけではなくて潜在意識からも構成されているということです。
しかしながら、今現在のこの私達の意識とはその潜在意識にある「記憶」の反応だと言われております
意識が記憶・思考に占領されてしまっているという状態が私達の姿でしょうか。
その記憶が考え、記憶が欲望し、記憶が行為し、記憶が恐れ、記憶が必死に努力して、知覚しているのだと。
そして私達は私達の潜在意識の中にある「記憶」(エレメンタル・想念形態)と一体化し記憶を自分自身だと思い
込んでしまっているといわれます。意識である私達は記憶が行為しているように行為してしまっているので、
その記憶の行為の責任を負うことになり、幾度となく転生しカルマを負ってしまうのでありましょうか。
・・・何故なら私達は記憶に包まれていて目が覚めていないからだと言われています。
それはまた私達の諸体が形成されていないからだと云われております。
それはとりもなおさず、
目覚めていないと言うことは記憶が浄化されていない、即ち私達から記憶が脱落していない・・ということでも
ありましょう。
「記憶」が人生の中で起こっている事に対して反応し、記憶が私として考え、見て、欲したり
怒ったり、恐れたり、憎んだりして生きているのでありましょう。
私達は目覚めていないので記憶が起こし、記憶が生きている人生を自分の人生だと思ってしまって
いるのでしょう。
失敗や成功を繰り返し、喜怒哀楽の人生の運命を必死に生き抜いているのは、私ではなくて
この私達の中の記憶なのであるということでしょう。人生を生きているのは私ではなく記憶でしょうか。
たましいと繋がっている私達とは「この人生を一生懸命に考え悩み生き抜いている記憶」という反応
なのではないということです。
毎日、会社に行き仕事をこなし、一生懸命に努力して、良いパパやママである私はわたしではなくて、
わたしの中の記憶なのです。記憶が仕事をして、好きになって、結婚して、生きているのでしょう。
その記憶のわたしを観察しているのが表面意識の私、即ち観察者の私です。
未知なるたましいと繋がる観察者の私です。
私達とはその一生懸命に努力して生き抜いて行為している「記憶」を観察している観察者なのであると
言うことなのでしょう。
しかし
しかしですが
その嫉妬し、暴力的で、愛を知らない、自尊心に溢れている「記憶の私」を観察している私、即ち観察者である私
とは、実は魂と繋がっている私ではなくて、それはやはり魂の私を覆い包んでいる記憶なのだと云われております。
この複雑な記憶の働きと同一化なく、非難無く、逃避なく、愛をもってさらに「思考なく見ている私」がいると言うのです。
記憶による観察ではなくて、さらにその「記憶を観察している記憶」を更に観照している私がいるというのです。
・・それは記憶や記憶が演ずる記憶の観察者ではなくて、日常の意識には現れることのないたましいの私の事でしょう。
それは「記憶の私」を見ているところの「記憶と混濁してしまった表面意識や潜在意識の私」のことを更に観照している
「たましいの私」だということでしょう。
その「たましいの私」は言います、「見るものは見られるものである」、「観察者は観察される者である」と
この「見るものは見られるものである」と言っているのは記憶の私ではなく、
記憶の私を観察している観察者の私でもなく、
さらにその観察者の私を思考なく見ている私即ち未知なるたましいの私の事でありましょう。
記憶にまみれた現段階の未熟な表面意識の私には、そのたましいの私のことは全く理解出来ませんが
その観察者を見ているのは、未知なる私、たましいの私・観照者であるということだろうと思います。
この目は「万物の中にわたしがあり、わたしの中に万物がある」と宣言している私であり、この記憶の私では
ありませんし、記憶のわたしを観察している観察者のわたしでもないと思います。
そのわたしとは観察者の私を観照している「万物がわたしである」未知なる私、即ちたましいのわたしなのでしょう。
その私とは「同時に多くの視点から見、同時に多くの場所から聴いている、知覚と認識の中心を持っていないわたし」
であることでしょう。
勿論、これを書いている久保栄治、この現在の私とは記憶+表面意識ですから、そのわたしのことを私は知りません
ので、ただ信じて想像して書いているだけです。「群盲が象をなでて誤解いている状態」です。
この表面意識のわたしは記憶と混濁していて、目は覆われて開眼しておらず、正しく見ることもない出来ないわけですから
行為することもなく、見る事もなく、話すこともなく、考えていることもないわけです。・・・それらは記憶が為しています。
行為しているのは記憶であり、見ているのは記憶であり、話しているのも記憶であり、考えているのも記憶だからでしょう。
私は目が覚めないまま記憶を自分だと錯覚して、記憶が行っているように行ってしまっているのでしょう。
そしてこの記憶が肉体を私だと思い込んで、話し、感じ、考え、欲し、行為しているのでしょう。自分を他と分離している肉体だと
実感しているこの私とは記憶なのでしょう。
そしてこの記憶の私が「目の前に現れている相手」とは自分を投影している自分自身だと知らずに相手を非難し、裁いて
いるのでありましょう。
わたしは眠りこけていて目が覚めていないからなのでしょうか。
この表面意識の私は記憶と一体化して、目が覚めることなく、出来事という人生の中で記憶に流されて生きているのでしょう。
私達は目覚めていないので起こっている出来事には参加することが出来ないのでありましょう。
出来事に参加しているのは、目覚めていない私ではなくて、出来事として起こっている記憶であることでしょうから。
この目覚めていない私は起こっている出来事に加わったり、変えたり、参加することが出来ないわけです。
この記憶が脱落しない限り、たましいと繋がっている表面意識の私は正しく見ることはあり得ないことでしょう。