見ているのは誰?


私達の通常の生活の人生では、このような疑問を抱くことはおそらく決してないことでしょう。

毎日の忙しい仕事に追われ、そして知識だけを、ただ詰め込まれ、欲望の充足だけが人生だと勘違いして

しまって、PCやテレビの情報の影響で思考することを忘れ果ててしまっている私達にはそのような疑問

すらもけっして思い浮かぶことは最早ありません。


「何のために生きているのか?」「私とは一体誰なのか?」などという疑問はこの情報というマスコミに

洗脳されてしまっている私達は決して、思ったこともないし、考えたこともないことでしょう。ただただ流されて

人生を生きているのかも知れません。



そしてそのようにして生きている私達にとっては

起こっている出来事、意識に沸き上がる怒りや嫉妬、そして突如として心の中に隠れていた憎しみや恐れ

が表面意識に登ってきたときに、これらの起こっている出来事に対して私達の「潜在意識の中の記憶」

は条件反応を繰り返していて、意識から記憶が脱落することもなく、私達の悲しみの人生は幾度となく

生死を繰り返し続いていくのではありませんか。

私達の人生とはこの潜在意識の中の記憶の繰り返しであるといえるようなのです。




しかし、その起こっている内部と外部の出来事に対して条件反応を繰り返している「記憶」とは前提として

潜在意識があるから存在していることが出来ているのであり、表面意識があるから記憶を認識することが

出来ているわけでありましょう。


この葛藤を認識している表面意識ですが、この表面意識とは潜在意識と一緒に働いているわけですので

潜在意識にある記憶が認識されるということは、これらの顕在意識・潜在意識そして記憶が一体化していて

働いているからこそ、この記憶は認識されているのだ・・と云うことを示しているのではありませんか?

これは意識が記憶によって混濁している状態である・・ということでしょう。


更に顕在意識があるということは超意識がなければその表面意識もなり立たないと言うことでありましょう。

と、申しますのは

私達は夜、熟睡しても必ず朝には目が覚めるように、私達の意識が継続して存在できていると云うことは

私達の意識をあらしめている熟睡、即ち基底、意識を支えている意識を超えた「実在」があることを示して

おります。

ただ残念なことに私達の表面意識は記憶と混濁しているために、その意識の基底を意識することが出来

ない情況なのでありましょう。



さて話は変わりますが

家の鍵というのはドアの存在を前提にしております・・・次に、ドアの存在は家の存在を前提にしてます・・・

更に、家の存在は空間の存在を前提にしています・・・というように私達の表面意識は超意識の存在を前

提にしているように思えます。



このように鏡に取り憑いている「記憶」自体が(水を濁らしている汚染物の存在は)取り憑かれるところの

意識を前提にしています。それは丁度、憎しみがあるのは憎しみを知覚している知覚を前提としており

知覚とは統覚作用を前提にしており、統覚作用とは認識をしている意識の存在を前提にしており、さらに

意識は意識を可能にしている熟睡という実在(超意識)がなければ、そもそも存在出来ないわけですので

ありますから、恐怖があること自体が、超意識である実在がなければ成り立たないというこでありましょう。



そのようにして、この私達の表面意識を混濁せしめている記憶があるということ自体が意識を超えてい

る実在があるということを前提にしているということになるのではありませんか。


私の友人がホ・オポノポノで記憶に対し「ごめんなさい、許して下さい、愛しています、ありがとうございます」

といっているのは一体誰なのか?それは記憶なのかそれとも表面意識なのか?と質問されましたが

それは勿論、記憶なのでありましょう。しかし記憶の動きとは、一緒に記憶と一体化している表面意識が

それを行っているのでもありますから、その「ごめんなさい、許して下さい、愛しています、ありがとうございます」

と言っているのは表面意識が行っている事でもあり、それは同時に潜在意識が行っている事でもあり、それは又

超意識が行っている事なのではないでしょうか?


ですので「ごめんなさい、許して下さい、愛しています、ありがとうございます」と記憶に語りかけている

のは記憶であり、同時に表面意識であり、またそれは超意識であるたましいでもあるといえるわけでありましょう。