私には起こっている行為に責任がある
私達はラマナ・マハリシなどの賢者が言う「行為は起こっているのだ」と聞くと、
すぐに「では私は行為に関わっていないので行為から自由だ」とか、「私には
行為の責任はない」とか、すぐにその様に短絡的に考えて安直に思い込んで
無責任に行為をしてしまいますが。
果たしてその私達の理解とは正しいのでしょうか?
それに対して、シェイクスピア達は「私は私が為すように為している」と云っています。
(※ここでいう私とは「たましいの私」のことで、そのたましいの私を構成している潜在意識の中
にある「記憶」の私を、同じように私という言葉で同じように標記されていますので混同されない
ようにご注意下さい)
これは即ち「私(たましいの私)は私の中にある記憶が為すように為してしまっている」と云
うことですから
私の中にあって且つ私が創りだした「記憶」が為すこととは、即ち私に責任があるわけです。
記憶が為している行為は、記憶と一体化してしまっている「たましいの私」が行っていること
でもあるからです。
同じようにシェイクスピアは「私は私が見ているように見ている」と云っていますので
私には「私の中にある記憶が見ていること」にも責任があるます。
どのように人を見ているのか?どのように自分を見ているのか?どのように世界を見ている
のかの責任が「たましいの私」にはあるということでしょう。
またまたさらに「私は私が知覚するように知覚している」と云うことですから
私には「私の中にある記憶が知覚している」この知覚にも責任があります。
このことを逆に捉えれば
「私は私が為すように為している」わけですから、たましいの私は為すことが出来るわけです。
私には「私の中の記憶」即ち思考を使って行ったり、見たり、知覚したり、話したりすることが
出来るのだということです。私には記憶と違っていて人を愛することが出来るのだということです。
私は自分を含めて、すべてのものを生かしておられる大生命に感謝して、全てを愛することも
可能だと云うことです。
私には「自分の心の中の記憶に同一化し、振り回されて怪物を作り出すこと」も出来るし
私には「自分を生かして下さっている大生命に感謝して、すべてを愛すること」も出来るということです。
私には生かされている自分を愛し、人を愛し、万物を愛することが可能だと云うことです。
私には「自分の中にある記憶に反して」自分(即ち自分と思っている私でありあなた)を愛する
ということが出来るということです。
自分の心の中にある記憶に従って、その記憶と一緒に盲目的に怪物を作り出すことも出来れば
自分を生かして下さっている大生命とともに、自分を含めたあらゆるものへ愛をあたえることも
出来るということでしょう。
私(私たましい)には天使も怪物も作り出すことが可能なわけです。