恐怖の観察者




なかなか通常の人生では、忙しい毎日で他の事に気が紛れていて、自分の中にある恐怖に直面する様な

ことは余りありませんが、何かのきっかけで自分自身の恐怖に直面して驚かされるがあります。


普通は自分の心の中に沸き起こる恐怖に直面すると、条件反射的に、恐怖に蓋をしたり、恐怖を思わない

ようにしたりして恐怖から逃げ去ります、恐怖が恐ろしいからです。

そして、久保栄治はいろんな教えを学んでいるので必死に「自分とは恐怖を観察しているものであって恐怖

とは別の存在、別の意識である」、と思ったりしますが、やはり恐怖はそこにおります。

また、何かの信仰を信じている場合は自分の心が清らかになるように願ったり祈ったりして、恐怖が去るように

また恐怖から解放されるように神に頼むことでしょう。

それらは、みな同じように「自分は恐怖を観察している観察者」であり、この恐怖を見ている私は恐怖とは別の

異なっている存在なのであって「私は恐怖ではない」・・とその様に思ったりしていることを示しています・・がや

はり相変わらず恐怖はそこにあります。


そこで、


別の観点から静かに「恐怖を観察している私」のことをじっと静かに見ていると次のような疑問が心の中に

わいてきます。「一体、恐怖を見ているこの私とは何者なのか」?と

次のような疑問がわいてきます

恐怖を見ている私とは誰でしょうか?

恐怖に恐れ戦いている私とは誰なのでありましょうか?

恐怖から逃れようと何かに気を紛らわして目をそらし、慌てふためいているこの私とは誰なのでしょうか?

恐怖に気がついてなんとかしなければと、色々と恐怖から離れるために何かをする私とは誰なのでしょうか?

恐怖に直面して、恐怖に対して、「私は恐怖ではないのだ」と言う、恐怖を観察しているこの私とは誰でしょうか?


さて

ここでは恐怖に限定しておりますが、それは恐怖だけではなくて、不安でも、イライラでも、怒りでも、自我でも、

怒りでも、嫉妬でも、暴力でも、競争心でも、肉体を私だと錯覚している私自身でも、利己心でも、自己関心でも、

支配欲でも、達成欲でも、欲望でも、拡大欲でも、知識欲や、何かになろう、至ろうとする欲望や願望や衝動でも

それらは同じことでありましょう。

ここでは恐怖に代表してもらい、これらの私(記憶の反応)のことを言っております。そして私達はこれらに出

逢うと必ず即座に、征服され巻き込まれてしまうか、若しくは逃げるのでありましょう。

この征服され、逃げ惑うこの私は誰なのでしょうか?



これに対してヒューレン博士は「恐怖には恐怖を体験することが重要で大切なことです」と云っています。

また神道の黒住宗忠は「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿を映してやみん」といっています。

クリシュナムルティーはこの恐怖を見ている私、恐怖の観察者という、「恐怖とは別だと思っている私」について

「見るものは見られるものである」であると語っています。


恐怖について何かしようとしている実体それ自身が架空のものなのです。

事実あるのは恐怖だけです。

見守っているものも、また恐怖なのです。

この事が明らかなら、観察者は観察されるものであり、思考者は思考であり

行為者は行為であり、そこに分離はありません。

私とは思考なのです。思考している思考者ではなく。

そして、この「思考者は思考である」「思考のみがあって思考者はいない」と

いう理解は

直接の経験でなければなりません。


このような経験があるとき、思考を超え出る可能性があります。




こでは恐怖のことを思考といっておりますが、上記のクリシュナムルティーの言葉は私はそのレベルでは無

いので、とても理解することが出来ませんが

ここにクリシュナムルティーが云っている「思考なく見なさい」へのカギがあるように思えます。

「見るものは見られるものである」との直接の理解が、「思考なく見る」事へのカギなのでしょうか?