記憶について
今日は記憶について思索してみました。
では記憶とは何でしょうか?
記憶とは「実相」「あるがまま」の前に覆い被さっているイメージ・思考・情報だと思われます。
私達は「自分」や「花」を正しく見ているのではなくて、「私を覆っている覆い」から見ているのでしょう。
その「私を覆っている覆い」こそ記憶であり思考であり、その「記憶の私」なのではないでしょうか?
その「対象としての花」を見ている私も、その私自身を見ている私も、共に「私を詐称している記憶で
あり思考」であると思います。花や自分をイメージでもって知覚し認識しているのは記憶なのでしょう。
ですので私達は自分自身のことを正しく見ているのではなくて、記憶が見ている私・記憶自身、すなわち
「思考が思考している自分自身・私」のことを自分自身だと錯覚しているのではないでしょうか?
本当は、私達である自分自身とは記憶でもなく思考でもない「あるがまま」なのではないでしょうか?
では、この「実相」「あるがまま」「未知なる本当の私」とは何でしょうか?
それは「実相」「あるがまま」「目」を覆っているところの記憶である思考(即ち分離している私)が
脱落していなければ認識されることはないのではとおもわれます。
何故なら、記憶である思考が観察者であり、知覚者であり、認識している私だからではないでしょうか。
従って、記憶が脱落しなれば決して、正しく「あるがまま」を見る事はないことでしょう。
この「目」を覆っている思考は常に自分自身を上位の自己と下位の自分に分割し、自分を肉体であり、
肉体や脳の欲求や知覚を自分の欲求であり知覚だと錯覚し、思考は脳の産物だと思い、自分を内部と外
部に分割し分離して見ていて、「世界と自分は別々な存在だ」「内部と外部は全く別に存在している」「自分
は真我と偽我・自我とに分かれている」、「見る者とは見られるものは別々だ」「自分の内部は他人とは異なっ
ている」「主体と対象、私とあなた、は別々である」、そして常に「私と天使」「私と悪魔」というように、善悪を
異なるものとして知覚し、自分を観察者と観察される者とに分離し、自分を他者を区別して知覚し認識して
いると言われております。
実際には「見るものは見られるものである」であり、観察者は観察される者であり、内部は外部であり分離
しておらず、私とは他者であり、万物であるのに、記憶は自分である観察者とは観察されるものではないと
錯覚しています。
そのように事実と全く異なるように内部と外部を観察しているのは記憶であり、その記憶とは観察者である
私であり、常に「私は観察される対象とは別の存在だ」と知覚し、認識しているのだと教えられています。
またその記憶の知覚し認識する方法は、必ず、分析的方法、理論的方法、科学的方法、情報や言語による
記憶などであり、その思考は必ず理論的な理性や知性という方法を用いて、全ての人が共通している方法
でもって理解しようとします。それら思考を根幹にした間違った方法で「あるがまま」に接近しようと試みます。
が、それは必ず理解に導かず、真逆の正反対の誤解へと導かれ、決して「あるがまま」の認識にたどり着け
ないということになります。
「目」「あるがまま」の理解は、それらの思考に依る科学的な方法ではせいぜいが理論物理学の素粒子
理論までしかいけず、「観察者が観察される対象・素粒子に影響をあたえる」という理論に留まってしま
います。思考では世界や自分自身、自然や宇宙や花などの「あるがまま」を理解することがありません。
真理に接近するためには、それらの情報や記憶と云った思考に依る心理学的・情緒的方法・哲学的方法
・理論的方法・直感的方法では不可能なのです。
「あるがまま」「見るものは見られるものである」の理解は記憶や感情や情緒や直感や思考の知性や理性
による接近方法ではなくて、恩寵によって「私・記憶が脱落」したときに、「あるがまま」の方から認識を差し
伸べられるものだとおもわれます。