愛について
まずはじめに、この自分には愛を語る資格は、ないことをハッキリとお伝えします。
従って、私が語れるのは愛ではないことだけであります。
また私が語ることの全てが愛ではありません。何故なら私は愛を知らないからです。
何故ならば、この文章を書いている私は思考の記憶だからです。
キリストは「神は愛なり」「愛なくば全ては虚しい」「汝の敵を愛せよ」と言われました。
では愛とは何でしょうか?
私は愛を知らないし、語る資格もないので、愛ではないものを知っています。愛ではないものとは・・
・・それは・・この私。
この自分自身即ち思考であり、思考とは見る者と見られるものとの二元分離でありましょう。
この自分自身が意識から脱落したときに、元々初めからそこに在ったもの・・それが愛でありましょうか。
ここで言う自分自身とは「意識・鏡を覆っている記憶であり思考であり分離であるこの私」のことです。
雲が青空を覆っているように、太陽を見えなくしているのは雲であり、その雲が晴れたときに大空には
もともと初めから存在していた愛という太陽が燦燦と輝き渡っていることでありましょう。
この雲こそが思考であり、その思考の記憶とは即ち、この私「分離している私(思考)」であると思っています。
青空とは本来の透明なる私達の意識であり、そこに輝いているのは太陽である「愛」そのものであるこ
とでありましょう。
愛という太陽を隠しているのは思考の記憶であるならば、その思考の記憶とは何なのでありましょうか?
思考の記憶とは、即ち「分離」「分割」「二元」のことであり、それはまた見る者と見られるものとの分離分割
であり、自己観察においては観察者と観察される対象との区別、私とあなたの分離、分割・・そしてまた私と
あなた、私と世界、私と万物との分離分割のことでありましょう。知覚し、認識し、記憶し、行為しているのは
思考なのです。
如何に崇高と思える体験をして、経験を重ねていても、そこに体験している私、経験している私がいる限りは
それは意識を構成している潜在意識層にある膨大な記憶からの直感であることでしょう、それは遙か過去
からの記憶が引き起こしているイリュージョンであり、決して鏡の奥にある太陽からの光の経験ではないこ
とでありましょう。
それに対して、至高の愛からは私達である思考の記憶に愛自身が以下のように語りかけているのでしょう
「見るものは見られるものである」(クリシュナムルティー)
「観察者は観察されるものである」(クリシュナムルティー)
「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿を映してやみん」(黒住忠直)
「愛する者が、愛する相手に永遠に吸収されて二者が一体となるのでなければそれは愛ではない」
「如何なる自己も、全てを包み込む愛でなければ本物ではない」(ミルダッド)
「汝の敵を愛せよ」「与えよさらば与えられん」(キリスト)
以上のこの言葉は愛の状態そのもの、愛の目から見ている実相を示しております。
常識や世界の科学や宗教や哲学また一般世間や、この地球の文明では全く考えられないことですが
私達が世界を自分とは別の対象として見ていたり、目の前の相手を自分ではない他者として見ている
その目こそが、愛ではない記憶の目、分離分割の目であり、その知覚認識とは思考であることを示しています。
思考が内部と外部を観察しているのです。思考が自分自身を肉体だと思い込み、思考が内部と外部は別々だ
と思い込んでいるのです。
もし愛の目であるならば、その時「私は世界であり、目の前のあなたは私である」のでありましょう。そして
もしその愛の目から見れば「見るものは見られるもの」であり、「観察者は観察される者である」の理解がある
のであり、その理解こそが愛であり、愛を直に認識できるのでしょう。
クリシュナムルティーは愛についてこのような事を言っています。(以下は私の個人的見解ですが)
「恐怖を観察している私が恐怖そのものであるとき、そこに二元分離はなく愛がそっと姿を顕しています」と
私が自己観察の中で対象として恐怖を観察しているのではなくて、恐怖を観察している私そのものが恐怖自身である
と云う、その「理解」「実体体験」に達したとき、そこには見る者と見られるものの分離分割がなく、思考の記憶はなく
思考という二元・分離が「空」となったところには、「名付けられない神聖なる実在」がそっと姿を顕しているということで
ありましょうと・・。私達が自分や世界を自分以外の対象として見ている目とは記憶なのでありましょう。私が内部や
外部を見ているのではなくて思考の記憶が内部と外部を見ているのでありましょう。妻や夫や人や物や出来事を
そして私自身を見て考えて行為しているのは思考の記憶なのです。
愛を知るミルダッドはこのように愛について語っています
あなたが、誰かあるいは何かを愛するとき、本当は自分自身を
愛しているに過ぎない。
同様に、
誰かあるいは何かを憎むとき、本当は自分自身を憎んでいる
に過ぎない。
というのもあなたが
憎むものは、同じ硬貨の表と裏のように、分かち難くあなた
が愛するものと結びついているのだから。
もしあなたが自分自身に正直であるのなら、自分が愛する者
を愛し、自分を愛する者を愛するより先に、自分が憎む者を
愛し、自分を憎む者を愛さねばならない。
(愛〉の眼差しは澄みわたり透徹している。それゆえ
〈愛〉の眼差しはいかなる欠陥も見ない。
〈愛〉があなたの眼差しを浄化したとき、愛するに
値しないものをあなたはまったく見ないだろう。
愛が奪い取られ、欠陥のある眼のみが常にあら探しに忙しい。
その眼がいかなる欠陥を見つけようとも、
それは眼自身の欠陥だ。