ワークと責任




ワークとは「自己観察+自己想起」のことですが

私達は本当のところ、自己観察をしているのでしょうか?

それとも

私達は自己観察をしているのではなくて自己観察をしていると思っているだけなのでしょうか?



ではワークをしているつもりになっている私とは、一体どの誰でしょうか?

どの私がそう思っているのでしょうか?


通常、私達は自分とは自分であり、なんで「その私とはどの私なのか」などとの質問に対しては、

その質問をすること自体が統合失調症なのではないか?と疑ってしまわれることでしょう。

自分はここにこうして生きて、自分の力で自分の人生を生きているというのに・・・と

何でそんな複雑でおかしな事を聞くのだろうか・・・と。


それは日常生活を送っている私達には「この記憶の反応の私の意識」しか意識されていないので、

それはそう思われるのは当然であることでしょう。


しかしながら自分自身をよく観察してみれば、身体や脳を使って大生命が生きておられるように。

この私とは起こっている脳の結果なのでしょうか?自分が自分であると思っているこの自分とは

それは、脳に起こっている思考である私(記憶の私)の反応のことだけであるのでしょうか?

その脳に起こっている思考の記憶・・・・記憶(潜在意識を覆っている)がそう思っているのでしょうか?

これに反してアドヴァイタの賢者が言うようにこれ以外に空なるたましいの私がいるのだが、そのたま

しいの私は記憶に覆われているので記憶を通してしか見ることや行うことが出来ないというのです。



では現況でのたましいの私はその記憶の私によって知覚されている対象である私を判断や比較や逃避なし

に見ているでしょうか?否々、たましいは脳に縛られ、自我(記憶)に覆われているので判断や比較や逃避

そのものが記憶+たましいの動きとなってしまっています。




しかし、その記憶(思考)があることが可能であるのは「意識の座」があるからなのではありませんか?

「カギ(思考・記憶)」は「ドア(意識)」があることを前提とし、「ドア」は「部屋(超意識)」の存在を

前提としているように「記憶の私」があるのは意識(鏡)が基底にあるからではないでしょうか?



残念なことながら、私達である鏡(意識)は汚れ(記憶・思考)に覆われ、脱皮(記憶・自我が脱落)

しておらず自分自身である意識(鏡・空)は殆ど自覚されないので思考に巻き込まれております。

従いまして記憶の行う行為と思考の責任をたましいの私は負うのです・・といわれております。


ワークではその錯覚している私(記憶の私)が「私はワークしていると思っている」に過ぎないとい

うことを私達である鏡(意識)が自覚しない限りワークは始まらないといわれてます。

従って、この事を直に完全に把握することが起こったときワークは起こるといわれております。


厳密には意識は思考ではないからですが、現状では意識は思考と一体化し混濁しているので、現在

の私達は、思考(記憶)が思うように意識(鏡・諸体・たましい)も思い、行い、欲し、知覚しているのだと。

ですので記憶である思考の行為と思考には、たましい(※現在のパーソナリティー・未形成のサイコノエテ

ィック体・ヴィジュニャーナマヤ・コーシャ)に責任があるといえます。


何かになろうとしており、何かを獲ようとしている限りは、そこには記憶(思考)が働いていますし

記憶とは「分離している私」であるので、空であり鏡である意識は思考と同じように行為し思考してしまっています。


私達は鏡であり、意識であり、現在の所は如何に思考に覆われ混濁しているとはいえども私達は意識の座

であり思考の記憶の反応ではないのですから、いつかは「思考なく見ること」の可能性は有ると言うことでしょうか。



このたましいである「合わせ鏡という鏡」に映る「他者という自分」の姿をみて、自分のことを相手だと錯覚して

相手(自分)のことを罵倒し、非難し、評価しているのは、その罵倒し、評価し、非難している私、即ち思考であり、

私の鏡を覆っている記憶であり、「私を騙る思考」なのであり、決して意識である鏡の私ではないということでしょう。



しかしながらこの記憶の行為の責任はこのたましいの私が負うことになります・・・何故ならたましいの私は記憶が

行為している様に行為し、記憶が思うように思い、記憶が考えているように考え、記憶が見ているように見ているか

らでしょうと。



意識である鏡の私は未だ目が開かず眠ったままであるから、充分に意識が覚醒しておらず記憶と一体化してしまい

その記憶の思考と行為をたましいが行ってしまっているので、そのたましいが行う行為と思考には責任を伴うという事です。

(ここが複雑なので申し訳ありません)



従って、その合わせ鏡に映っている自分の姿(記憶・自我)とは、鏡(たましい)が思考の記憶と自己同一化し

ているたましいの姿でもりあり、同時に鏡が生み出した記憶(エレメンタル)自我であり、その記憶は意識(鏡)である私

の一部であり、畢竟それは私・たましいの責任なのではないでしょうか。たましいの私の思いと行いはそれが

記憶による思いと行いであってもたましいの責任です。


・・・思考や行為や記憶とは肉体と同じように神聖なる創造物(マーヤ)であるようにも感じられます。



現状では、殆どの場合、私(記憶の私)を観察しているのは、鏡そのものである意識(透明・空)ではなくて、

鏡に映る自我即ち思考であり記憶であること。そしてその記憶の責任はこの鏡であるということをハッキリ

と自覚する段階の意識状態になったとき私達は潜在意識的意識状態から一つだけ成長して意識的意識

状態になることが出来ると言うことでしょう。


ここで始めてワークを開始できるスタート地点に立つことが出来るといわれております。



それまでは、そのワーク(自己観察+自己想起)とは記憶(思考)の範疇に内にあり、思考である自我・私

を通しての活動に過ぎず、決してワークではないことでしょう。





「記憶が見ているのであり、その記憶によって見られるものとは記憶自身の姿である」・・・

「私が非難し、悩まされ、又は良くしてあげようとしている相手とは私自身即ち記憶なのです」・・・と

賢者は言われております。

・・・このことを、たましい《現在意識+潜在意識(即ち記憶と混濁してしまっている鏡の意識)》が自覚

できる段階に達したときワークを開始することが出来ると教えられております。





私達たましいは記憶が見ているように見てしまっているのでしょう。・・だから日常生活での見ること、

思うこと、話すこと、感じる事、欲すること、行うこととはたましいが行うことでもあり、たましいの私には

責任が伴うのでありましょう。