鏡
私達とは個人や人格ではなくて透明な鏡なのだと言われております。
「私は肉体だ」「私は他者ではない」「私は個人だ」「私が自分の力で生きている」「私はこの
私であり、思考であり、この欲望だ」と思っているのは、鏡の私ではなくて鏡の私を覆ってい
る私(記憶の私)であるのではありませんか?
考えているのは誰でしょうか?鏡である私は考えるのでしょうか?
誰が見ているのでしょうか?記憶の私でしょうか?それとも鏡の私でしょうか?
誰が知覚しているのでしょうか?記憶の私でしょうか?鏡の私であるならこのように自と他を
分離して見ているのでしょうか?合わせ鏡に映る相手を憎んだり恨んだり非難したりしている
私は鏡である私でしょうか?それとも私を詐称する記憶なのでしょうか?
私達は鏡なのであって、私(記憶の私)が起こしている思考や行為や感情ではないのではあ
りませんか?私達は鏡であり本来は太陽を輝かせることが可能な透明で空なのではあ
りませんか?
私達は鏡であって思考や行為や記憶の私がこの鏡に映し出されているのではありませんか?
そしてこの鏡に映し出されている私が考え、悩み、見て、行為して記憶しているのではありませんか?
思考や行為や感情とは私(記憶の私)が起こしているのであって私である鏡は透明・空なの
で透明なときはきっと思考ではなくて太陽を映し出すことが可能なのではないでしょうか?
私達は個人や人格という私(記憶の私)ではなくて透明な鏡であるというのに
私達はこの鏡に絶え間なく起こっている私(記憶の私)が起こしている思考や行為や
感情を自分だと思い違いしているのでありましょう。
また私の目の前の相手も、私と同じく鏡であるのに相手の鏡自体を見ないで「あいつが悪い」
と、その相手の鏡に映る、自分の姿・私(記憶の私)の姿を見て、自分自身を非難しているの
ではありませんか、その鏡に映る私(記憶の私)こそ、それを見ている私(記憶)の姿であり、
その私(記憶の私)を抱きしめ感謝し愛することが道なのではないでしょうか
観察者を見ているのが鏡なのでしょうか?
「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿を映してやみん」(黒住宗忠)
と教えられております