全託ということ
今朝は全託について考えてみました。
いろんな教えで私達は全託することの大切さ・重要性が説かれていることを知っています。
しかし「全託している《私》」がいる限りは、全託することは出来ないことだと思われます。
「え、、どうして?勿論私がもしいなければ全託することは出来ないのは当たり前でしょう
おかしな事を言うのは何故??一体どういうこと?」・・と思われることでしょう。
全託とは非常に稀であり、崇高なことなので、私などは口にすることすら憚れます。
本当の全託とは「私(記憶の私)がする」ことではなくて、「私(記憶の私)が無い」ときに起こる
ことだからでしょう。自我である私(記憶の私)がいる限りは全託はありません。自我は全託を
利用するからです。利用するとかしないとかは私(記憶の私)が考えていることなのです。
この私が全託しているという意識がある限りはそこには全託はなく、「私は全託をしている」と
錯覚している私・自我がいるのではないかと思われます。
全託があるときには「私が全託している」ということを知覚し、意識する私はなく、「私が全託
している」ということは認識されていないことでしょう。何故なら「全託している私」が意識され
ている限りは全託はあり得ないからだと思われます。そこには私(記憶の私)がいるからです。
「私は全託している」「私すべてをあるがままに受け入れている」とき、そこに全託している私
(記憶の私)はいないことでしょう。しかしながらそこに私(記憶の私)という「私が為している」
という「私の実感」がある限りは、全託をしている私がそこにいるのであり、全託は起こってい
ないということでしょう。
全託とは「すること」ではなくて「起こること」だからでしょう。
全託とは私(記憶の私)がゼロになり、拡大され空となって大空のように万物であることでしょうから
そのゼロでもなく、万物でもない、私(記憶の私)がそこにいて、自分は肉体で他者とは異なってい
ると思っているこの「無知である私」がここにいる限りは、そこには全託ということと正反対の「全託
を利用して神のようになろうとしている、自己の拡大を図る自我」がいるということでしょうか。
全託が起こるためにはその「私・自我」に対して愛を注ぐ必要が有るのではないか?と思います
それと同じように
「あるがままをあるがままに生きなさい」というのも同じだと思われます
私達である私が空でありゼロであり、鏡であり無限ではない限りは、「あるがまま」を覚知するこ
ともなく、従ってそこには自我丸出しの、自我が自我のことを「あるがまま」と勝手に解釈して、
「私はこの私だ」と錯覚して、自我に占領されたままであることでしょう。
その自我が「わたしはあるがままをあるがままに生きている」と好き勝手に暴れているので
はありませんか?
自我が自我のことを私だと知覚して、その限定された自我の知覚で認識している私・自我
が自分が起こしていることをあるがままと称し、「なるようになっている」「起こるように起こっ
ている」「あるがままがあるがままにある」と嘯いて害悪をまき散らしているのです。
自我がその自我の反応を「私は行為していない」「行為は起こっている」と称し思い込んで、
自分の欲望を思いっきり正当化して「起こるように起きている」「なるようになっている」など
と自我が自我の行為して自分を毒し、世界を汚しています。
同じ文脈で「帰依すること」「礼拝すること」「信仰すること」「無為」などがあります。
「私が帰依している」「私は礼拝している」「私が信仰している」「私は無為で、私は行為して
いない」という自我による錯覚・虚偽がある限りは、そこには欺瞞と暴力と殺戮と死と悲しみ
は絶えないことでしょう。
何故ならそれらの「帰依」「礼拝」「信仰」「行為は起こっている」等とは、私が「なる」「する」「知
覚認識する」ことではなくて、その反対に「なる」「する」「知覚認識」する私(記憶の私)がいな
いときに、そこに元々在ることだからでしょう。
「帰依」「礼拝」「信仰」「無為」などとは、私がそれをしているという知覚・統覚がある限りは、
それらの「帰依」「礼拝」「信仰」「無為」「あるがままはあるがままに起こっている」は宗派対
立と戦争と虐殺に導かれることでしょう、そこには悲しみと絶望しかないことでしょう。世界の
宗教の過去からの殺戮の歴史を見てみれば語るまでもありません。
いくら「行為は起こっている」「自由意志は起こっている」「あるがままがあるがままにある」と
叫んでいても、そこにそのことを知覚認識する私(記憶の私)がいて、行為している私(記憶の私)
がいる限りは、その行為も、その自由意志も、その起こっている事も、自分自身である自我の行
為であり自我の思いであり、自我の知覚であり、その自我が起こしている行為なのではないでしょうか。
それはKのいう{思考なく見ること」「私なく見なさい」と言うことも同じ文脈で捉えることが出来
ます。Kの本を読んで、私(記憶の私)がその「私なく見よう」としているのですから、見ようとしてい
る私(記憶の私)が邪魔をして「私なく見ること」を妨害しているわけです。
その正しく見ることが起こるには、「思考なく見よう」と努力して、ワークをしたり、瞑想したり、努力
したりする私(記憶の私)がいる限りは起こらないでしょう。私が空になり、透明になっていなけれ
ば起こらないでしょう。
私が「私なく見ること」を起こすのではなくて、その正反対にその為には「私なく見る」ために、
見たり、聞いたり、考えたりする私、「私なく見よう」とする私がここにいないということが大前
提となります。
この「私なく見る」ことが在るためには、見ている私が空となり透明となり、そして万物がある
がままの状態でなければならないのであって私(記憶の私)が「なる」「する」事ではありません
「なる」「する」は思考の記憶の反応即ち私(記憶の私)だからでしょう。
この「私なく見る」ためには「私なく見ている」ことが恩寵によって起こっていることが前提で
あり必要ではないでしょうか
賢者は語っています
私達たましい表面意識は記憶が見ているように見ています
私達たましい表面意識は記憶が考えているように考えています
私達たましい表面意識は記憶が思っているように思っています
私達たましい表面意識は記憶が行為しているように行為しています
私達たましい表面意識は記憶が欲するように欲しています
私達たましい表面意識は記憶が感じるように感じています
私達たましい表面意識は記憶が知覚しているように知覚しています
私達たましい表面意識は記憶が認識しているように認識しています
私達たましい表面意識は記憶が外部世界を認識しているように外部世界を認識しています
私達たましい表面意識は記憶が内部を認識しているように内部を認識し
その内部・記憶を外部・世界・対象・起こっていることとして投影し誤って認識しています
と
私達たましいとは記憶である私(記憶の私)ではありません
未だ眠っているとは言え私達は私(記憶の私)ではなく鏡である
たましいなのです