私は主体ではない
私とは主体ではない・・というときっと吃驚されることでしょう。
私とは主体ではないと言う意味とは一体どういうことを指しているのでしょうか?
平たく言うとこの私とは、多くの複合している「私・意識」から成り立っている存在であり、現在において
意識している「私」とは、平均的な人類の場合は実は記憶なのであり、その記憶の反応のことを指し
て私だと思われています。またこの私とは個人であり、人格のことでもあり、通常の生活や人生にお
いては、これ以上の私は存在していないと思われており、潜在意識の事も、またそれを超えている
高次の私も一般的には意識される事もなく、話題になることもなく、認識されることもありません。
短い人生の間、通帳の残高だけを気にして、最後は無に帰する名声と繁栄と成功と安定を求めて
徒労の努力を重ねているのです。
ではこの一般的に知覚し、認識し、知覚され、認識されている私とは果たしてなんなのでしょうか?
それは実は私達人類の潜在意識にあるとされている過去からの記憶であり、その記憶の反応のこと
を世界では「私」だと思われております。しかしながら多くの「真の私」の意識が覚醒した方々によれば、
この通常の「私」とは記憶の反応なのであり、決して私達の真の主体ではないといわれているのです。
この記憶の私とは条件付けられている脳が受けとった思考であり、その思考の記憶なのであって、「結
果・人格」であるものに過ぎず決して主体ではないということであります。
具体的には、この記事を書いている久保栄治のことを自己観察してみますと、久保栄治という人格は
実は今回の転生の記憶だけではなくて、過去からの無数で統一性のないお互いがお互いを知らない
沢山の「記憶の私」から成り立っていると思われます。久保栄治の人格とは「レギオン」(新約聖書にで
てくる人に取り憑いている複数の私・記憶・エレメンタルのこと)なのです。久保栄治は記憶なのです。
そしてその私の潜在意識にある記憶の私群とは「真の私」が覚醒した方々によると、その記憶の私と
は主体ではないということなのです。
主体とは主(あるじ)という意味であり、私とはこの人生を生きているこの私のことですが、この現在
の私達である自己意識・私とは、この私自身の主体ではなくて主(あるじ)でもないという意味です。
現在意識のこの通常の私・自己とは、実は記憶それ自身のことでありまして、この記憶とは「この
記憶」それ自身が起こしているのではなくて、根源からの「神聖なるマーヤ」からであるということ、
記憶自身は記憶の主体ではないということでしょう。記憶システムは神聖なるマーヤが支えて
いるということなのでしょうか。ですから主体とは根源の大生命であるということなのでしょう。
潜在意識にある記憶から発生している思考や感情や行為が、この現象界に起こっている出来事
に対して反応しているのだと思われます。そしてそれに対してたましいからの私は、眠った様な状
態に陥ったまま、潜在意識にある記憶が起こしている反応(思考や行為のこと)に自己同一化し
ているのだと教えられております。
さて本題に戻り、記憶の私は主体ではなくて、記憶である私が「私は主体だ」と錯覚しているのです。
そして出来事を知覚し行為しているのでしょう。思考とその記憶が起こしている行為が現象界のマ
ーヤ(分離という錯覚)を支えているのでしょうか。
「私である自己意識」という記憶は、(記憶が主体なのではなくて、記憶とは条件付けられている脳を
媒体にして起こっている結果であるという意味ですが、)結果であり、生命が思考を生み出し記憶を
維持させているようにも思えます・・・少々複雑なので申し訳ありません。
私達はこの自分は「たましい」なのであり、自分が、自分の意識や意志や努力で行為し思考し自分
の人生を生きていると、その様に実感していますが本当にそうなのでしょうか?この思考し、行為し
ている私とは実際には「記憶の私」の意識なのであり、この記憶が考え、求め、思考し、行為している
のであって、たましいの私ではないと思われます。何故ならば私達においては、たましいの私とは
未だ目覚めておらず、表面意識には顕在化していないからです。ただ、記憶は個体の太陽神経叢
と接続している潜在意識にあるので、記憶は潜在意識が司っている行為や神経に対して直接に影響
を与え実際に行為することが出来るわけなのです。
この私という意識の記憶は主体ではなくて、実際には結果であるものなのではないでしょうか?
私が生きているのではなくて「この私であると思っている私」は生かされ、生じている結果であり
脳が生み出した「思考の記憶」の反応作用即ち「無知」なのではないのかということであります。
たましいからの私は未だ眠った状態であり、顕在化していないので意識されることもなく、意識
することもないのです。
分かり易く言えばこの私という自己意識即ち私・自己(記憶)とは実は主体ではなくて、主体が支え
ておられ、生かしめておられる(あらしめている)結果であるということでありましょうか。
私が生きているのではなくて、「条件付けられている脳」が受信し、脳が生み出している「思考の記
憶」が思考し行為していて生きているのでしょう、私達とは私達の主体である大生命が生み出した
記憶の反応作用であるということでありましょう。・・たましいからの私は未だ眠ったままでしょうから。
ここも同じく分かり易く言えば、私達のものであると思っている肉体や脳とは大生命が生み出し、大
生命が生かし生きておられる現象であるように、実は私達記憶の主体とは大生命のマーヤなので
あると思われます。
大生命がこの地球の全ての万物をつくり、維持し、使って生きておられる・・それは外部だけでは
なくて内部も同じなのであるということ。「内部と外部を別々だとおもっているもの」「わたしとあなたは
別々だと見ているもの」とは、実はこの大生命が創造し使っておられる「思考の記憶」なのでありま
しょう。
肉体や脳と同じく内部内面である意識や自己や思考・感情そして記憶・自覚認識といった「この私」
とは、実は、肉体や脳と同じく、また他の生物や他の存在万物と同じように、被創造物であり、この
記憶である私(個人・人格)とは大生命の結果であり、現象であり、そしてその現象を起こしておら
れるのが大生命であり、その大生命こそが「記憶の私」の主体であり、現象とは大生命が生かして
おられる、大生命の表現作品なのではないか・・ということなのであります。
私達人間は私達人間が主体であり、私が行為して生きていると思っておりますが、全ての私を含
めて私が主体なのではなくて、大生命が主体なのであると思われます。主体とは見えず、「知覚や
認識の対象ではない大生命」が肉体として、脳として、脳が受信している思考として、そしてその思
考の記憶の私、「この私・自己意識」として生きておられるのであると思われます。
そしてそのことを思考なく観照しているのが、創造物ではない、創造主・大生命そのものである神の
子の私、霊魂の私であると云われております。しかしながらこの神の子からの私・たましいは、未だ
目が覚めずに眠ったままなのです。
肉体は大生命のものであり、大生命が生み出し、大生命が生きて使っておられるように、脳も大生
命のものであり、大生命が生み出し、大生命が使っておられるのだと思います。
「この条件付けられている脳」が受信している思考も大生命のもの、その思考の記憶も大生命が生
み出し、大生命が使っておられる(神聖なるマーヤ)なのでしょう。
意識の内部の潜在意識にあるという「思考の記憶」は大生命のもの、大生命が生み出し、大生命が
使っておられるのであると思われます。
思考の記憶である私・自己意識とは自らを主体であり私だと思っているのであるけれども、実際に
はこの意識・自己意識とは大生命が生み出し、そして使っておられるものであり、ほかの万物と同
じように大生命の被創造物なのであると思います。
この「私はあなたとは分離されていて別の存在」だと意識し、「私と万物は全く別で異なる」と知覚
している「私・記憶」とは実際には全く主体なのではなくて、主体の結果なのであります。
主体とは大生命であり、大生命が肉体を創り、脳を創り、思考を創り、この私という思考の記憶を
生み出して、その思考の記憶という自己意識・無知なる私を使って演じ生きておられるのではない
でしょうか。そして大生命自身の子供が未知なる本当の私「たましい」なのでしょう。
私・記憶は主体ではありません。生きているのは私ではありません、呼吸しているのは私ではありません、
意志しているのは私ではありません、思考しているのは私ではありません、知覚しているのは私で
はありません、欲望し行為しているのは私ではありません、この意志し、欲し、考え、行為している
私とは条件付けられている脳が起こして生み出している思考の記憶であり、その思考の記憶が私達
全ての一人一人の人類なのではありませんか。記憶は個人の奥では全人類で一つのものではあり
ませんか。
この私・自己意識とは全人類で同一の潜在意識層にある思考の記憶なのではありませんか、思
考の記憶が自分自身が生きている。自分は主体であると錯覚しているのではありませんか。
この現在意識の記憶の私とは決して主体ではないと思われます。主体である大生命の子供である
神の子からの私(たましい)は未だ眠ったままなのです。
私が主体なのではなくて、主体は大生命なのでありましょう。神が生きておられるのではないでしょ
うか?
大生命が「思考の記憶」を使い、その「記憶の私」として生きて演技しておられるのではないでしょ
うか?
アートマンはブラフマンなのだと教えられております。
きっと頭が混乱してしまうことでしょうが、この事をホ・オポノポノの解説図は上手く説明しています。
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