記憶と潜在意識
以下は常日頃、私が思っていることであるのですが、そもそもこの思うという思考は、条件付
けられているのでありましょうか?
思考とは条件付けられている脳を通過している記憶であるので、必ず見る者と見られるもの、
観察者と観察される者に分離していて、尚且つ時間と空間という三次元である物質界の知覚
方式に縛られ限定されていて、真理である「あるがまま」を見ることは決して出来ないと言われ
ております。
記憶という思考では、決して「私」に接近することが出来ないのであるといわれております。
その思考という記憶が私達人類の潜在意識のなかで沈滞し停留し覆っていて、潜在意識を混濁
せしめていると言われているのです。
そして、その潜在意識を混濁せしめている記憶という情報や思考で構成され、その「思考からなって
いる言語で成立する科学や思惟や観念」では、決して真理や生命や「あるがまま」には接近すること
は出来ないという事であります。
記憶とは、その条件付けられている脳から発生している思考の集合であり、システムとして機能して
いるので、その記憶が今回の短い物質界での一生涯で、○○さん、□□さんと呼ばれている個人である
ということでしょう。
その○○さんとは、それぞれの脳から発生した記憶という人格、個人であり、決してその本人ではなく
その「本人である私」を覆っている架空の私であるに過ぎないということでありましょう。
そしてその記憶は、自分のことを、「この私は私である」と思っているこの私であることでありましょう。
なぜならばこの記憶は潜在意識にあって、潜在意識を通じて肉体を動かすことが出来るので、自分は
この肉体であり、私が思い行い「私が生きている」「私の人生だ」と錯覚しているのでありましょう。
だからして、この記憶の私は「私はこの○○という個人人格であり、何々国の国民であり、何の宗教を
信じていて、何々人種である」と実感してしまっているのでしょう。、
その記憶とは太陽神経叢(丹田)付近に繋がっているとされる潜在意識の中にあると言われています。
そして記憶は潜在意識を通じて体性神経をつかって行為し、自律神経に大変な影響をあたえていると。
その記憶とは「無数の私群」から成り立っていて、人類共通の潜在意識の中にあります。
また「たましいの部分である表面意識」はハート付近の胸に位置しているのだが、未だ未発達・未形成であり、
眠ったような状態のままであり、潜在意識にある記憶(複数の人格・個人)と一体化したままで、今回も記憶と
一緒に生まれ、そしてまた「私は老化して病気になり肉体を離れている」と錯覚したまま、悲しい人生を送って
いるのであるということです。
潜在意識も表面意識と同じく本来は頭頂にある「私」たましいと一つであるのに、表面意識のわたしは
眠ったまま、自分の潜在意識にも気が付かず、その潜在意識にある記憶・思考を自分自身だと錯覚し続けてい
ると言われています。
この潜在意識の記憶を自分だと信じ込んだ表面意識の私は未発達、未形成のために、「自分は行為している」
と、記憶が起こしている行為と一体化し、出来事が起きた後に出来事を生きていると言われております。
未発達の表面意識の私は出来事が起こっている最中に出来事に参加したり、加わったりすることが出来ませんと。
出来事を生きて行為しているのは、表面意識の私ではなくて、私の潜在意識の中にある記憶なのですと。
眠ったままで潜在意識の記憶と一体化してしまっている表面意識の私は
記憶が見ているように見ています
記憶が話すように話しています
記憶が食べるように食べています
記憶が思うように思います
記憶が感じるように感じています
記憶が考えるように考えています
記憶が行うように行ってしまっています
記憶が欲しているように欲してしまっています
記憶が知覚するように知覚してしまっています
「私は誰であるのか」を知らないまま、記憶の思考と行為とに一体化してしまっております、そして
記憶である思考を私自身だと錯覚してしまっています・と。
私達は眠ったままであり、決して自分は思考しておらず行為していないことを知ることがありませんと。
私達は私達の潜在意識の中にある記憶が思考し行為するように、思考し行為してしまっていますと。
目の前のあなたという鏡に映っている私の「記憶」の姿を、あなたであると思い込み非難しているのです。
目の前のあなたという鏡に映っているのはあなたではなくてこの私の「記憶」なのです。
あなたとは私と同じ神の子であるのですと。
目の前のあなたという鏡に映っている「あなたという私」とは私の記憶なのです。
私はあなたと同じ神聖なる鏡であり神の子なのですと。
あなたも私も本来は同じ一つである神聖なる「鏡」であることに気が付かないのです・・・と教えられております。