カルマについて.・・私見
私達はいろんなところでカルマという言葉を耳にしますが、カルマという
言葉は一体何をさすのでありましょうか?
カルマとはサンスクリット語で「行為・行動の責任」という意味であり、通常では
「前世での行為の結果が今世に現れる」というような原因と結果の法則として
捉えられております。
普通は「私がこのような才能や特性を有する肉体で国や民族や環境や両親のもと
に生まれてきて良くも悪くも色々な出会いや出来事に遭遇しているのは前世から
のカルマである」というように捉えられております。
「私達・自分がこの運命や境遇や出来事を甘受しなければならないのは、それは
自分が過去世で行った行為や想いの責任をとっているからなのであり、それは
数学的に決まって起こる原因と結果の法則なのだ」・・・といった
説明を良く耳に致します。
このように、カルマとはこの神聖なるマーヤ(二元分離)を成立させている根源の
法則なのだと思われます・・ひかりを認識するためにはくらやみが必要であり、愛を
認識するためには分離と二元性が必要なのではないでしょうか?
従ってカルマとは、それは私達がそのカルマの原因となった行い、即ち思考や行為を
「自分の自由意志で為すことができている」、即ち「自分が為したのだ」という大前提に基
づいておりますので・・・もしその私の自由意志なるものが実は私達たましいが起こして
いるのではなくて、私達の中の潜在意識にある「記憶・私」から起きている現象であると
したなら・・・
そしてさらに、もし或るたましいがその自分の中にある潜在意識の記憶から自由で解
放されていること《思考からの解放》が起こったとしたのなら
その時、自己自身からの解放と同時にカルマからの解放が起こるのではないでしょうか?
それは、カルマの主体である「記憶である私・個人・人格」が消滅しているからでしょう。
カルマ(行為)の主体は記憶という人格なのであって、私達「たましい」という表面意識
+潜在意識そのものではないと言うことになってまいります。
私達たましいはカルマの結果と原因を創りだしている「潜在意識層にある個人・人格と
いう記憶」と一緒に転生しているのであって、「私・たましい自身」はカルマの原因を創り
だしている「記憶の私」とは異なる私「I AM 」であるということでありましょうか。
しかしながら、いま現在ここで生活し行為しているのが「プログラムされている特定の肉体」
に宿った「前世から継続している個人人格(記憶)」であるから、私達はその記憶ではないと
言ったとしても、その私達たましいが「その記憶と言う人格や個人」とまったく一体化して
おり、「自分が行為している」と実感して行為に巻き込まれているのが現状である以
上は、その行為とは、やはり肉体に入って、記憶に巻き込まれて「行為は自分が為し
ている」と思っている「表面意識+潜在意識の私」であると言えるのではないでしょうか。
だからこそ、そのたましい「表面意識+潜在意識の私」は潜在意識にある過去世の人
格・個人の私の「思いと行い」にも責任があるのではないでしょうか。
ミルダッドは「思うことと、行うことに最大の責任と、最大の注意を払いなさい」と言
っております。
もし、私達である「鏡という表面意識+潜在意識」が、記憶から起こっている行為や思
考から解放されて自由であるのならば、その時にはカルマとは、実際に思考や行為
をしている記憶(人格や個人)の世界のことであることでしょうから、私達たましいは
カルマから解放されることになります。
そしてそのときには、私達は行為している主体である「記憶」から解放されて自由で
あり、カルマ(行為)に関与していないという理屈になることでしょう。
何故、理屈なのかというと実際の現実として私達は記憶と完全に一体化していて、いま
現在も自分の中ではその「記憶」である人格や個人がいつも、生き続けており、決っし
て「自我は終焉」していないのであり、個人・人格から自由であるわけではありません。
ですから
私達は記憶(人格・個人の私)と完全に一体化している以上は、その記憶という過去世の
人格や個人の行為や思考の責任を当然、負うことになってしまうことでしょう。
私達である鏡・たましい(現在意識+潜在意識)は
自分の中にあって、私自身だと意識し自覚しているこの私、朝起きて夜眠ってしまう
この私、「私は○○」であると自分のことを他人とは異なる個人・人格だと実感し、
常に何かに成ろうとし、至ろうと努力している「記憶の私」に覆われております。
私達である鏡(現在意識+潜在意識)は肉体に包まれて、三脳(小脳・中脳・大脳)
の機能に縛られ、完全に潜在意識にあって地球全体で一つの「その記憶である多くの
人格・個人」に深く深く包まれ覆われております。
また同時に私達が入った肉体やその小脳や中脳や大脳から発生している五つの感覚
や衝動や欲望やカルマに包まれ覆われて同一化しているので、その欲望や衝動や思考
を「自分が為していると実感」しています。
自分自身の内面を見ることもせず、自己観察(自己意識は自己観察ではない!自己観
察はあらゆる方向から自分を見ている!)することもなく、従って世界を常に記憶が見て
いるように見ているので、正しくあるがままを見ることがありません。あるがままに世界を
見るためには記憶が脱落していることが前提条件であり、それは恩寵によるしか方法が
ありません。・・・と教えられているのです。
私達は自分が思考し、自分が色々と悩み苦しみ、そして恐れ、行為していると実感しており
人生を生き続けております。それを起こしているのは記憶だと言うことに気が付きません。
「記憶という個人、人格」が生きているのであって「私たましい」ではありません。私達はその
個人人格に一体化しているので、従って当然のことながら、この状態の私は過去世の
カルマに引き込まれてしまうことでありましょう。
私達である鏡(現在意識+潜在意識)から「記憶という思考が脱落すること」が恩寵により
起こらない限りは私達自身は「透明」になることが出来ず、「空」になることが出来ず、従っ
てカルマの世界に再び誕生せざるを得ないことになるのでありましょう。
色々と悩み考え、日々苦しみ、恐れ、憎しみ、競争し、常に自己の利益を考えているこの私、
この自己関心で一杯のこの私とは、私達である鏡(現在意識+潜在意識)ではなくて、潜在
意識の中にある記憶の反応(人格・個人)であるのだと教えられております。
私達は正しく「たましい」であってこの「記憶である人格や個人の私」ではないのでありましょう。
たましいの私は恩寵による解放が起こらない限りは、それらの「記憶である人格」の思
考や行為を追体験してしまうことによって、その記憶である「特定の名前を持っている人格・
個人が為している思考や行為の責任」カルマを負うことになってしまうのでありましょう。
記憶から自由でない限りは、その「行為をした記憶のカルマ」を引き受けてしまい、再び或る地域
の特定の人種の運命を持った胎児に宿ることになるのでしょう。そして行為の主体である記憶、
「その記憶である人格」から発生するエレメンタル(思考と感情)の責任を負うことになるのではな
いでしょうか。
私達(現在意識+潜在意識)は自分の中にある記憶と完全に同一化してしまっているために、
起こっている行為や欲望や目的や判断などを自分が為していると思い込んでおり、行為して
いないたましいの自分を認知出来ずにおります。
その記憶である個人や人格が為している行為や思考や感情や判断や評価や観念を
「追体験」し、その「追体験すること」によって「自分がその行為や思考や感情や判断
や評価をしている」と錯覚して、私達たましいは、その記憶という個人・人格の行為の
責任(カルマ)に巻き込まれてしまっている。
ということなのでありましょう