私達は記憶が見るように見ている
昨日、あるホームページから発見した、ヒューレン博士の言葉を紹介します。
ここで博士が述べておられることは「禅」や、クリシュナムルティーや神道、
グルジェフまたは不二一元のアドヴァイタの方々の教えとも合致しており
物凄く深淵でかつ意味深いことを、簡単に述べているので驚かせられます。
以前「マトリックス」という映画がありましたが、おそらくその映画の制作者も
ヒューレン博士と同じような事を伝えたかったのではないかと思います。
日常生活の中で、潜在意識からの恐怖や不安・怒りに直面して、私達は、なすす
べもなく、翻弄されてしまいますが、ここで博士は、たましいという言葉で私である
「表面意識と潜在意識」の事を言っており、そのたましいは、潜在意識の中にある
「記憶」から自動的に再生されている、恐怖や選択や評価、行為などに一体化し
ていて、それらに流され続けているけれども、私達は「表面意識+潜在意識」な
のであり、決してそれら、潜在意識にある「記憶⇒思考・感情・行為・個人・人格
・自我」ではないことを強調しておられます。
それらの不安や恐怖である思考や感情や行為とは潜在意識の「記憶」が身体
や脳を通じて起こしていることであって、私達である「表面意識」や「潜在意識」
という、いわゆる「鏡・たましい」は、その「記憶」から起こっている不安や恐怖とい
う感情や思考や行為を為している自我それ自身ではないと言われています。
それらの恐怖や不安や嫉妬心や暴力や支配欲は潜在意識の記憶から沸き起こるので
「表面意識」+「潜在意識」の私は自分が為して、自分が思っているのだと実感して
しまっています。即ち、それらの「記憶」が起こしていることに対してたましいは、自
分が思い、自分が為していると錯覚して悩み苦しんでいます。そして自分はエゴだ、
自分は個人で人格だ、そしてさらに肉体と同一視して、自分は才能がない障害者だ
(若しくは才能有る成功者だ)と自分を自慢し、非難していますと。
またその潜在意識の中の記憶は記憶自身を通じて自分の姿を世界と周りにダブら
せて見ているので「彼は味方だがあいつは敵だ」「悪いのはおまえだ」などと自分を
写している「相手(実は自分)」のことを非難し、また相手を非難することで自分自身
をも非難していて、決して自分自身である「たましい」を理解することがありませんと。
しかしながら、この記憶・自我とは、過去の私達(記憶と同一化しているたましい)が
創りだしたエレメンタルであり、その記憶・自我の責任は私にありますと。
またこの記憶というエレメンタルは自我であると同時に自我の観察者でもあり、記憶
という自我は、自我を対象として知覚認識することにより、自我が自我を非難し、自分
は観察者であって自我ではないと自らをその様に欺して生き延びておりますと。
大いなる愛と感謝がやってきて自我を許し、愛し、感謝で抱擁するとき大いなる変革
がやってくると言われます。
※ここで博士が言うインスピレーションとは、私達である表面意識と潜在意識である
知性と繋がっている「超意識・空」の更に内奥からのメッセージであると言われて
おられます。
以下はヒューレン博士の言葉です
"たましい"を包括している潜在意識や意識は
それ自体が、「自らのアイデア」、「考え」、「感情」、「行動」を引き起こし
ているのではありません。
既にお伝えしたように、
潜在意識や意識は、記憶の再生かインスピレーションを「追体験」しているだ
けです。
つまりどんな体験であっても、"たましい"それ自体が問題をうみだしているの
ではないと知ることがとてもたいせつです。
"たましい"は、
記憶が見るように見ます。
記憶が感じるように感じます。
記憶が振る舞うように振る舞います。
記憶が決めたように決めます。
あるいはごく稀に、
インスピレーションが見て、感じ、振る舞い、決定するように
"たましい"も見て、感じ、振る舞い、決定しています。
記憶 か インスピレーション
そのどちらかです。
{問題解決のカギ}
それは、からだや世界に問題があるのではなく、
潜在意識の中で繰り返し再生される記憶が結果としてからだと世界にあらわれる、
このことを知ることです。
"自分"を操作するのは、インスピレーションか記憶、そのどちらかです。
インスピレーションか記憶、そのどちらかが一瞬ごとに潜在意識(ウニヒピリ)に対して
行動を決定することができます。
"ほんとうの自分"というたましいは、その瞬間どちらか一方の指示にしか従えません。
インスピレーションというバラの花ではなく、たいてい記憶(思考)のトゲに向かっています。
ヒューレン博士は私達とはたましい(表面意識+潜在意識)なのであり、私達である潜在意識
の中にある記憶(思考)ではないのですといわれております。
私達は思考ではなく意識・鏡なのです。ですのでクリシュナムルティーはいつも「思考なく見なさい」
と言われ続けたのでしょう。
私達である、たましいとは意識なのであって記憶である「私という思考」ではないと言われてます。
たましいとは鏡であり、光を通過させる透明なガラスであり、太陽の光を地上に届ける窓なの
です。私達は「空」「無」「無我」「意識」であり、即ち神がお使いになっている鏡であるので私達で
ある窓・鏡を通じて太陽(インスピレーション)を地上に顕すのですといわれております。