日々の祈り
日々の祈り
◎「祓え給え」
◎「清め給え」
◎「さき(愛)はえ給え」
◎「知らず知らずに犯したる罪・咎とうを許し給え」
◎「御心の天になるが如くに地にもあらしめ給え」
◎「愛しています」
◎「ありがとうございます」
これは極く一般的な祈りですが、わたしもこの祈りを毎日唱えております。
この言葉は思考を超えた「真言」であり、言葉自身が大いなる力を持っている
といわれております。
しかし、この祈りとは、誰が誰に対して祈っているのでありましょうか?
それは私達・「空で無限」なる私が、内なる神に対して祈っているのでしょうか。
(この空である私とは、この表面意識の私のことですが、今現在の所は、思考に
よって覆われ尽くされているので自覚されておりません。この表面意識の私は肉
体に起こっている思考や行為やその記憶とすっかり自己同一化してしまっている
ので、起こっているその出来事や思考や行為に振り回されて一喜一憂しております)
ですので畢竟、このような「私は私だと思っている私たち」が内なる神に対して祈っ
ているのでありましょう。
このことで
キリストが言うように「死すべき私」が永遠の私と一つになるのでありましょう。
記憶である私が自分自身から解放され根源へと回帰されるのでありましょうか。
では、その内なる神に祈っている「私だと思っている私」とは誰なのでしょうか?
その私だと思っている「この現在の表面意識の私」とは一体誰なのでしょうか?
それは複合的な「私という記憶」等によって覆われて混濁してしまっている表面意識
(鏡・本来空)の私であることでしょう。
ではその記憶等によって混濁してしまっている表面意識の私とは誰なのでしょうか?
表面意識の私とは、潜在意識の一部であり、
その潜在意識とは地球人類で一つで一体の意識で構成されている意識であり、
過去の記憶もそこにあり、思考の記憶によって混濁してしまっている意識の一部である
ことでありましょう。
表面意識とは夜になると眠ってしまう肉体の脳の一部と結合している潜在意識の一部
分であることでしょう。
その潜在意識の一部分である「脳と結合した表面意識」が、その表面意識に出現する
潜在意識のなかにある「思考の記憶」の反応を自分自身の反応だと錯覚し、
記憶と自己同一化してしまっているのが、この現在の表面意識の私の状態でありましょう。
その「坩堝」のような、記憶によって混濁している状態の表面意識の私が祈っている私
なのでありましょう。
ですので、この祈っている私とは、地球人類で一つの共通の潜在意識で構成されている
表面意識なのですが、潜在意識を汚染している「記憶」と一体化し混濁しているので、上記
のように「この多くの意識をあらしめて生かしておられる未知なる超意識」に対して祈ってい
るということなのでありましょう。
ここで重要なのは、祈っている私とは記憶と混濁している表面意識ではあるけれども、地球
人類で一つの「潜在意識」の私でもあり、この私とは空なる鏡なのであり、本来は太陽を輝か
す「無限と繋がる意識・鏡」こそが、私である表面意識の実体であるということでありましょう。
神道で私達のことを大元の太陽神と繋がるひと(霊人)と言っているのと同じであります。
私は肉体ではありません。
私は起こっている思考や感情やその記憶ではありません。
またその行為でもありません。
私は他者と分離していると思っている私ではありません。
私はあなたやすべての人間そして万物と分離しておりません。
私は万物である根源と繋がる、万物と一体の(霊人ひと)なのです。
・・・と祈っております。