受容




私達は常に何かに至ろう、知ろう、成ろう、そして進歩、進化してより良くなろうとして求め

探求し藻掻き続けており、決してあるがままに感謝し、あるがままにここに留まることをしない。

私達は現実のあるがままを感謝して受容することをしないで常に求めより良くなろうとしている。

良くなろうとしているのは誰なのかを知ろうとはしない。


私達は自分の認識する現実なる自分を常に良くしよう、進化させよう、自己実現しようとして

その「記憶の私」の欲望、「記憶の私」の活動に捕らわれており、あるがままをあるがままに

感謝して受容し、受け入れることを決してしない。あるがままを記憶から判断し、評価し、非難し

逃避し見ることをしない。



「自分は知らない」「私は知ることはない」という現実を知らず、現実を認めることもなく受容もしない。

自分が生きているのではなくて、自分は生かされているのだという現実を知らず、自分を受容しない。

私は生かされているのではなくて自分が自分の力で、自分が生きているのだと錯覚している。

その錯覚しているのは記憶なのではないか。


では受容とは何か?

受容とは肯定すること。私は生かされていることを素直に認めること。全ての私を受容すること。

受容したり、しなかったり、否定したり、肯定したりしている、その「記憶の私」の現実を認めること。

成ろうとすること、至ろうとすることは、決して受容することではないので、記憶の私はもっともっと上に

行こう、知覚を広げようとして藻掻き苦しんでいる。その苦しんでいる私を受容すること。記憶の私を愛し

抱きしめる事。



誰が成ろうとしているのか?誰が探求しているのか?誰が思考しているのか?誰が為しているのか?

・・それは「自分は生かされている」「自分は記憶である」ことを知らずに「私が自分である」とそう錯覚し

ている記憶なのであって、その「記憶の私」とは決して「表面意識である鏡の私」でもなく、「万物である

未知なる本当の私」なのではない。


その記憶の私とは、常になにかを為し、思索し、探求し、実践し、なろうとし『思考なく在りなさい、思考な

く見なさい』と言われている「思考ではない私」から離れていると思い込んでいる私の事。その私を愛すること。


実際は自分を生かしておられる親がいるのでこの私(記憶の私)が生存できているのに、私達は親を知らない。

私達は無限に愛されていること、全てを与えられ生かされ、大慈悲に包まれていることに全く気が付かない。

記憶の私が未知なる「思考ではない私」に解消され一つになることが記憶の私の喜びであるというのに・・・。




私達、条件付けられている脳の思考の記憶が見ているこの現実とは、潜在意識の記憶が見ている世界なの

であって、私達は決して本当のあるがままの世界を見ているのではないということを知らない。この記憶の

私はあるがままの世界を知らない・・ということを記憶の私は知らない。

何故ならば全託しておらず、受容しておらず、感謝していないからだ。知覚が閉ざされたままであるからだ。



すること、至ること、成ることは決してあるがままの受容ではない。その反対であり、あるがままを拒絶す

ることである。

変わろうとしたり、至ろうとしたり、成ろうとし、なにかを為すことは、結局は「思考なく見る」が起こる

ことに導かない・・・それは記憶の働きであり、あるがままを否定しているからである。



目的を持ち、努力し、探求し、至ろうとし、何かになろうとしてなにかを為す、その欲望がないとき、感謝

があり、受容があり、そして全託があり無為がある。

あるがままとは、探求や、することや、努力が脱落したとき初めからそこに在った・・と教えられている。




私達は生かされていることに気が付かずに

常に求め、探求し、成ろう、至ろうとして、なにかをなし、努力し、進歩し、あるがままから離れて行く。

それらは決して受容ではない。それは受け入れることではなくて、その反対の「観察者という記憶

の私を受け入れない」ことだ。



常に何かに至ろうとし、何かに成ろうし、自己実現しようとし、何かをなしている、その進歩しようとする

ことこそ「あるがままからはなれていく」ことなのではないか?あるがままからは離れられないというのに・・・。



「記憶の私の」する、至る、なるが脱落したとき受容があり、感謝があり、そこに始めて全託があるのではないか?




あるがままはあるがままにあるのであり、なろうとすること、することが脱落したときはじめからそこに

在ったと理解出来るのだと教えられている。

そのときそこには生かされている深い深いありがとうございますという感謝だけがあることだろう。

・・・と思ったりする