隣の人



『隣の人って・・どういうこと?一体なんのことだろうか?

・・それは、わたしのとなりにいる妻や夫や父母や子ども達のこと・・そして友達のこと。


では、私達はその目の前の人に本当の意味で、実際に出逢ったことはあるのだろうか?


それは、「毎日顔を合わしているし、よく知っているし愛しているよ」・・と思っていることだろう。



しかしながら、毎日、顔を合わしてはいるけれども、本当の意味では決して出逢ってはいない

のではないか?


~えっ!・・それは一体どういうことなのだろうか?



そこで、ここで一度立ち止まって神道の黒住宗忠師の言葉にじっと耳を傾けてみたい。

・・「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿を映してやみん」・・


・・・この視点から見たばあい、事態は一転してしまうこととなる。


私達は、家族や友人や関係している方々に毎日、顔をつきあわし、一緒に生活をしてはいても

よくよく自分を観察すれば、自分の先入観やイメージを通じて他人と対話していて、私は近くの

隣にいる家族や友人と話していないのかもしれないのである??!!。

先入観やイメージや過去の記憶無しに、その相手の人と一緒にいるのだろうか?それとも

常に心の中では潜在意識の記憶からのお喋りが続いてて決して止まることがないのではないか。

この潜在意識の記憶というイメージの中で話しをして、自問自答し、それを自分自身の中で繰

り返しているのだ。



だからして同じように私は私自身に対しても本当の意味で出逢っていないのではないか?

私は○○だ、私はしかじかかくかくの段階の私だ・・・と私自身のことを思っているのは、一体誰なのか?

私は肉体だ、私は人のことを考えていない自我だ、等と自分を観察して、自分のことを分かったつもりに

なってしまているのは誰か?

私は自分自身を自分のイメージでもって観察していて、その自分を観察している私とは誰なのかを

知ることが出来ない。その知ることが出来ない私のことは、この「知っている私」は知らない。

私が出逢っている私とは私が持っている自己イメージであり、記憶であり、その記憶を通じて、その記憶の

私が記憶である私自身のことを見ており、その記憶というものが自分を見ている、自分の観察者なのだと

云うことに気が付かなければいけないのではないか?



自己を観察しているのはその「観察されている私」なのではないか?

そしてその観察されている私が「自分とはああだこうだと自分自身のことを知っていると思い込んでいる」の

に過ぎない。・・・その観察者とは誰だろうか?・・・それは思考の記憶なのではないか!!


それと全く同じように、私たちが見ている目の前の相手とは自分の記憶が働き出して記憶それ自身

を相手の鏡に投影して相手を評価したり、非難しているのだという。しかし、実は

それは相手なのではなくて、自分の記憶を相手の鏡に投影して「自分の姿」を見て、相手を非難し、

自分は正しいと記憶が思い込んでいるに過ぎないのである。目の前の相手とは自分自身なのだと。



本当の意味で私が私に出逢うためにも、また私が父母や子供たちと出逢うためにも、この自己イメ

ージや記憶が脱落していなければ、私が見ている私も、私が見ているあなたも、それらは私の中に

あるイメージなのであり、私は自分の中の記憶の反応(分離している私という自己意識)を相手に投

影して見ているに過ぎないということになるのではないか。


この人類の私達全員が見ている、目の前の他者とは実は自分の中にある記憶、・・潜在意識なので

あるということだろう。

実は潜在意識が潜在意識を見ているのであろう。


目の前の相手の姿とは自分の姿なのである。・・ということだろう。・・しかしながらこれが出来ているのも

鏡が存在しているからである。鏡という意識の座があるからであり。虚偽が可能なのは実在があるからなのだ。





これに関連しての話しであるけれども・・

遠隔治療が何故に可能で、そういうことが出来るかの理由は・・自分が見ている相手とは自分自身である

・・という理由に拠るのである。


その目の前の人とは、実際にはその目の前の鏡という存在ではなくて、

その目の前の相手の鏡に映っているのは「治療を受ける相手」ではなくて「治療しようとしている治療家の記憶」

であり、それゆえにその目の前の相手とは「治療家の私という記憶体」なのであり、治療家の自己意識でもある。


だから治療家は相手を癒やすのではなくて、私の潜在意識の記憶を癒やすのである。

その私の記憶とは肉体の脳にあるのではなくて脳と重複し繋がっている「表面意識を構成している潜在意識」にあ

るので、鏡でもある表面意識を覆う記憶が少しづつ透明になって覆いがとれ、本来の鏡に近づけば潜在意識に作用

し、潜在意識を浄化することが恩寵によって、できるということなのであろう。


だから遠隔治療に於ける治療すべき相手の人とは、治療しようとしている人が投影している、自分の姿なので

ある・・ということなのである。自分を癒やせば他者も癒やされるのであって、その逆ではない。


道元禅師はそれゆえに「自己を忘るといことは万法に証せらることなり、万法に証せらるということは、自己

及び他己の身心を脱落せしめるなり」と喝破されたのである。

何故、道元禅師は自己の身心だけではなく、他己の身心をも脱落せしめることができると仰ったのか?

それは私たちの身心は実際に自他に分離しておらず、自己を忘れる(自我の終焉)という恩寵が降下したときは

潜在意識を共有している私もあなたも共に、身心の脱落(空・ゼロ)という恩恵をこうむるからなのであろう。




もしその治療者が治療されたい人のことを直に見ることが出来るのならば、そこにはその合わせ鏡の

状態の中に光り輝く太陽しか見る事はないのではないか・・・この状態は・・私は知らないし・・私には分からない

ので従って話せないし、ゆえに話すことは出来ない。・・・おそらく言語では話すことが出来る様な次元ではない

のだろう。自分も他者もその鏡は同じなのであり、思考と言う記憶が取り払われた鏡には同じ一つの太陽が

輝いていることだろう。



いずれにせよ、私達は私の中にある記憶を投影して自分の周りの方々を・・それは家族や友人や子供達

のことだが・・・目の前の相手として自分自身の姿を見ている・・ということなのだろう。


夫婦や親子は、それぞれが自分の姿を鏡に投影して、「なんでおまえはそんなに分からないんだ!馬鹿!」

と非難している。しかしながら実はその夫や妻とは自分自身の記憶の姿であるのだ・・・。


その相手に対する非難とは、自分自身をも非難しているのであり、その非難の中には決して自分を理解しよう

とする姿勢はないことだろう。そこには自分を愛して、自分に対して感謝する姿勢がないからである。



黒住宗忠師の「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿を映してやみん」・・もう一度この言葉をかみしめてみたい。

私とは鏡なのである、そして目の前の相手も鏡である。しかしながらこの鏡は私の中にある「私という記憶」に

よって覆い尽くされてしまっているのである。



私の鏡を覆っているのは、自分に対する自己イメージであり、過去の記憶であり、思考であり、潜在意識なのだ。

・・それ故に、これを書いているのも、この記憶自身であり、決して鏡である私ではない。鏡の私なら自他の分離はなく

私とあなたという合わせ鏡に神聖なる輝く愛の太陽を見ているからだろう。

しかしながら私達の現況では、この記憶が自分自身である鏡を塞ぎ、そして覆ってしまっていると言える。


この自己の鏡を覆っている記憶が有る限りは、私達は妻や夫にそして親に出会うこともできないし、子供達に出会うこと

もないだろう、そしてまた鏡という本当の自分自身にも出会うことはないだろう。記憶が自分を知っていると思っているのだ。


この私自身である鏡を覆っているこの自己イメージや記憶とは、表面意識を覆っている過去から記憶であり

その過去の記憶とは、この個体の脳が今回の人生で受けとった思考の記憶や感情だけではなくて、もっと

もっと過去世も含む、広大で人類全体の共通の潜在意識層に繋がっていると教えられている。



私が見ている妻や夫や子供達や関係者の姿とは、実は、この単体の脳だけが受信している思考や感情や本能や

欲望の記憶の姿だけではなく、その奥には過去のすべての人類の記憶が潜在意識としてあり、その潜在意識を相手に

投影して私達は自分や他者のことを見ている・・・ということなのだ。・・それ故にそこには本当の他者である鏡には

決して出会うことはないのだ。



夫や妻を非難し、子供を叱りつけているのは、自分の姿を夫や妻や子供に投影して自分を非難し叱っているの

である・・・そしてその非難し叱っている私は、本当の私である鏡を覆い尽くしている過去からの脳が受信した記憶、

欲望や出来事や想念の記憶、思考の記憶である私に他ならない。




この記憶が反応して私自身として、思い、考え、自分の肉体だと錯覚して、行為し、生きているのであろう。

日常生活を生き、人生を生きているのは鏡である私なのではなくて鏡を覆う、この記憶の私なのではないのか?


この記憶がクリヤーにならない限りは(思考が停止しない限りは)私たちは父母に逢うこともなく、妻や夫は

それぞれがそれぞれに出会うこともなく、子供達にもであうことはないだろう。思考が鏡から脱落しなければ

光明はありえない。


では、その私という鏡を覆っている記憶の性質とは何であろうか?



この記憶とは思考のことであり、思考とは自他に分離している私の事であり、表面意識を覆う自我のことであろう。

自我とは自己関心であり、競争心であり、自尊心であり、プライドであり、常に神の右側に座りたいと思っている

エゴであり、常に他人の目を気にして「自分はどう思われているのか」を気にし、傷ついている私すなわち自我の

ことである。利他の行為を意識しているのは自我の利欲心であり、謙虚を意識しているのは傲慢という自我なのだ。

この記憶である自我は常に考えており、問題を抱え、質問し、思索し、目標を持ち、成ろう、至ろうと努力して行為

しており、けっして愛を理解出来ない。決して自己を失うことがない(プライドを失うことがない)からだ。

この私とは、愛ではないもの即ち、自他の分離そのものであり、それは動機や目的を持ち、肉体を自分の身体であり、

脳を自分の脳だと信じ、脳と自己同一化し、自分が人生を生きていて、自分が行為し、自分が思考していると錯覚し

ているこの表面意識を覆っている思考の記憶のことであろう。


そしてその思考の記憶とは、懸命に努力し、真理を探究し、悟りを得て光明を得たいと思っているこの私なのである

サイコノエティック体の私、輪廻を続けながら無明の中を歩んでいるこの私が思考の記憶の反応なのである』


自己を失うことは自己には出来ない・・それは内なる聖霊の恩寵による。