脳と意識は異なる
肉体に結合した私(未形成のサイコノエティック体・現在の表面意識の私+人類全体と共有している
潜在意識の私+未知なる観照者の私)が私・・・すなわち単純に云えば
これらの複合している表面意識の私のことですが・・・この私が私なのであって、
この表面意識に表れてくる
条件づけられている脳からの「思考の記憶」や、中脳で「受信した欲望の記憶」である私とは、即ち日常生活で
自分と意識している私のことですが・・それらは表面意識という鏡を覆い尽くしている「私ではない私」である
と思います。
さて、この現在の私の意識(現在の未形成のサイコノエティック体の状態)とは
けれども未だ潜在意識的な意識状態であり、従って日常生活にて活発に活動している私・・それは「条件付
けられ
と自己同一化してしまっているのではありませんか?
・・という現状なので、現在の私とは未だ意識しておらず、意識されていない私、即ち賢者が言うところの目を覚
ましていない(透明になっていない)状態なのではありませんか?本来は透明な鏡なのに、鏡という表面意識は数多くの
記憶の私によって覆われているのです
私達・鏡である現在意識の私は、脳の視床下部付近で肉体と繋がっているのだけれども
この肉体の左脳のある部分が睡眠に入った時には、右脳が充分に働いていないので
脳と結合している「現在の私の意識」も一緒に眠ってしまい
「現在の私の意識」が覚醒状態(思考ではない透明な意識状態)になれないのは何故なの
でしょうか?
それは脳と繋がっている私達が殆ど覚醒していないで浄化されていない潜在意識のメモリー
(思考の記憶)と一体化している状態だと云うことでしょう。
ある意見によれば、それはつまり、人類の脳は条件付けられており、平均的な私達は左脳ばかり
しか働いておらす、右脳が活発化したとしても脳に結合した「現在の私の意識」が潜在意識の
「思考の記憶」と一体化して混濁してる(浄化され透明化していない)状態なので、右脳が受
信しているその内容を認識できないからなのだとも云われています。
それを昨日、あるホームページで見たのですが・・その意見によれば、起きている時に、
つまり「現在の私の意識」が覚醒している時に、右脳をどんどん働かせていれば、眠っ
ている間でも、意識が右脳と同調することができて、左脳が眠っているときでも、意識は
覚醒を継続させる事ができるようになるのではないのかということなのです。
それはどういうことなのかと云えば、起こっている出来事・・即ち外部と内部の行為と感情と
思考と自我のあるがままを自己同一化することなく、愛し、感謝して受け入れる・・という
全肯定、全受容をすることなのだと思います。
イライラしている私、恐れている私、訳が分からなくなっている私、暴力の私、欲望の私、それらの
苦しむ私を抱きしめ、耳を傾け、許し許され、愛し、その私もどきに感謝する事なのではありませんか?
全肯定と全受容がその起こっている行為と思考と自我からの超越をもたらすのではありませんか?
どうやら右脳は潜在意識と繋がっているらしいので、その右脳を通じて潜在意識領域が
浄化され、解放へと進み、思考の記憶から自由になり、その結果として「現在の私の意
識」の浄化そして透明になり覚醒(「空としての状態」)へと進むのかも知れません。
それを逆に言えば、覚醒するようになった「現在の私」の意識は日中でも、この左脳の
思考とは別に意識(観照)として働き出すと云うことでしょう・・・
思考者を見つめている意識(観照意識)が発生するのかも知れません。
しかしながら、その為には日頃から日常生活の只中に於いて、自分が如何にメモリーに覆われており
私は潜在意識のメモリーと同一化してしまっているかを観察していなければなりません。
そしてそのワークに呼応して恩寵がくだって
表面意識に集中ではない「注意」「理解」や、「気づき」が生まれていると云うことでしょう。
その時、表面意識である現在の私の意識は頭上にある「超意識」との繋がりが意識化さ
れたのでしょう。・・そして私達である意識は本来の空・ゼロとなって内奥の光が輝き出すのでしょう。
ではその右脳を活発化させるとは具体的にはどういうことなのでしょうか?
・・・私は、それは潜在意識にある「メモリー」の浄化こそがそれではないのかと
思います。右脳を活発化させてそれを右脳が蓄積している記憶を浄化させる為には、
右脳に接続している潜在意識に働きかけ、そしてその感謝と祈りが右脳の潜在意識から
超意識へと届き、今度は超意識から私達の現在意識に働きかけが降下(恩寵により)
することにより、脳の条件付けが解除されない限りは、「私達(鏡)が浄化される」「私達
(鏡・表面意識)が目を覚ます(空となり透明となる)」ということは難しいのではないか?
私(鏡の私)は眠っている・・・という自覚が、鏡から思考の記憶が脱落したことであり、その自覚・目覚
めることは非常に難しいのではないでしょうか。
何故ならこの現在意識とは鏡である表面意識を覆っている思考の記憶の反応だからです。
通常の日常生活での自己意識とは、表面意識を覆っている思考の記憶の反応だからです。
自分は瞑想して真我に到達し真我を体験したと思っている私は思考の記憶の反応だからです。
・・私は眠っていると云うことを「見て自覚している」のは眠っていない私、空なる私が目を覚まし
覚醒していることを示しているからでしょう。
・・と推測しております。
ですから、このような右脳が活発化していない状態での通常の日常生活での意識
とは、実際には肉体に入った本来の現在のパーソナリティーの意識状態なのではな
くて、顕在意識の殆どが条件付けられている左脳の働きの結果であり、そしてまた
それは同時に現在意識の基底(右脳)にある潜在意識のメモリーの反応ではないか
と云われております。ですからこの日常の自己意識も、その自己意識によって観察
される思考と行為も、悩みも、問題も、苦しみも、恐怖も、出来事も、そして私も
・・・私達である現在の私の意識ではないのです。潜在意識のメモリーの反応なのだと。
この日常生活での私達の自分自身の思いや考え、記憶そして欲望や願望や恐れや感動
そして行為し、考え、質問し、悩み、逃避し、努力している自分を自分だと思っている
この私とは本来の私達の意識ではなくて、それは「条件付けられている脳」の反応であり、
そして、それは、また潜在意識のメモリーの反応なのだということでしょう。鏡である表面意識
ではありません。
現在の私・鏡とは、この思考や行為や思考者、行為者であるメモリーと混濁していても、私達
とは空である観照者なのではありませんか?
肉体に入った私達とは潜在意識と一体化してしまい、思考しか働かない眠ったままの状態
なのだと教えられています。
肉体に入って脳と結合した私達である表面意識・鏡は殆ど覚醒していないので、この日常
生活での「私の意識」とは本来の現在の私の意識ではなくて、肉体の左脳の働きと僅かな
右脳の働き、そして中脳からの本能の働き、そして、それらの脳の記憶なのではありませんか?
それは又、右脳と繋がっている潜在意識にある記憶であるメモリーの反応・・即ち丹田付近
にある潜在意識(この意識は人類全体と共有している)にある過去からの思考の記憶(メモ
リー)である反応なのだと思われます。行為して思考しているのはこの記憶の反応なのだと
思われます。
・・・私達は左脳とより深く一体化して右脳が充分に目覚めていないので、左脳が眠ると
一緒に眠ってしまうのだと。
そのホームページによれば、右脳が活発化して意識が働き出すようになれば、そうなれば、
視覚化による現実化の能力や予知能力などを発揮できるようになる事も可能になるのだと
いう事です。
そうなれば、この現在の私の表面意識は思考から自由となって今よりはもっとレベルの高い状態
で生活する事ができるのではないか?というわけです。・・・