責任




責任とは何でしょうか?

責任とは自分が為したことに対しての責任ということであるのでしょう。

けれども

自分が為したことの範疇には思ったり、欲したりする内面での行為も同じように

行為として自分には責任があるということでありましょう。



世間では覚醒した覚者の超越した言葉を、そのままのこの未発達な自分に当て

嵌めてしまい

「行為は起こっているのだ」「思考は起こっているのだ」と勝手に、諸体が再形成さ

れていないのにもかかわらず「行為は起こっているのだから自分には責任がない」と

・・その様に、責任を回避し、全く思い違いし、無責任の自分勝手な行為をしている方

々が散見されるのは悲しいことであります。


しかし、その様な賢者は内なる聖なる霊魂と一つになった方々であり、二元性を超越し

た神聖なる霊魂であり、私達、二元性の中にいる迷えるものにとっては自我が残存し

自己がゼロになっていない限りに於いては、そのレベルの私達にとっては、行為や

想念には責任が必ず伴っている・・ということを忘れてはならないと思います。



では私達の現状では私とは何なのでしょうか?

それは神聖なる霊魂と共に肉体に入り脳と結合した私・・・即ち成長し、内なる霊魂と

繋がる可能性のある私


◎「表面意識の私+特定の思考の記憶の私+全体の潜在意識の私」で構成されている

意識複合体なのではありませんか。



ここで言う「思考の記憶の私」とは、潜在意識の中にあって全体の潜在意識を構成している

特定の私(氷山の一角)という一部分であるけれども、本体の潜在意識そのものとは地球

が始まった最初からの、総ての人間・人類の記憶であることでしょう。



であるからして、「思考の記憶」でありメモリーと呼称されている私とは、主にこの特定の

個体に関与している現在のパーソナリティーに属している過去の私の記憶の反応である

のに対して


全潜在意識の私とは、人類の歴史の始まりから、全人類の行ってきた行為と、感情と、欲望と

思いや、絶望や希望で構成されている人類全体の全ての記憶であることでしょう。


過去のすべての人類の歴史の中でわたしたちが、苦しみ、悲しみ、恐れ、悩み、考え、歩み

努力し、そして真剣に生きて希求したその人間人類の全ての記憶がそこにあることでしょう。


ホ・オポノポノでは、この現在意識が潜在意識のメモリーに対してワークを行います。

混濁していても現在の私が感謝と愛と悔悟と懺悔をメモリーに対して捧げる行為を通じて、

内なる至高の存在にお願いし、その記憶を中和させて戴くという~システムを実践しています

が、他にも色々と素晴らしいアポローチの仕方は世界には数多くあることでしょう。



これらのワークで重要なのは目の前の他者とは実はこの潜在意識の私自身であるということです

他者を癒やすのではなくて過去の自分自身を愛し、自分自身を感謝して、許し、悔悟するという

事でありましょうか。


それは神道の「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿を映してやみん」でもあります。



いずれにしても、私達とは内奥では至高の存在と直結しているとはいえ、この潜在意識の記憶が

高次の存在によって、解消され中和されない限りは、内奥の光は表面意識や潜在意識には届か

ないということになってしまうでしょう。


この私達の表面意識とは人類共通の潜在意識の一部なのですから・・。


厳しい言い方をすれば私達は「表面意識の私+思考の記憶の私+潜在意識の私」で構

成されている私であるので、私達は自分は個人だと実感していても、私達は個人ではなくて

全人類だと云うことでありましょう。・・私は全人類なのです。他人は私なのです。



そのように私とはこの個人ではなくて地球人として全人類であるならば

地球の反対側にすんでいる方々の行為や想念に対しても私達は責任を負うのかも知れません。

癒やし、愛し合い、助け、お互いに成長して、共に内なる神の王国に一緒に戻らねばなりません。


それ故に潜在意識にある有史以来の人類が行ってきたことの記憶を中和することにこそ

私達には責任があるのかもしれません。


・・何故なら私達は個人ではなくて人類全体であるということだからでしょうか。

・・・・私達は個人ではなくて全人類であり、全人類として全ての人間の行いと言葉と思いに

対して完全に責任があるのかも知れません。