私達は意識だ





通常、常識では意識というとハッキリとは定義されず漠然と自己を意識している心

のことを指しているのであるけれども、正確に言えば、この自己意識とは表面意

識+潜在意識+思考の記憶のことであろう。


ここでは思考とは条件付けられている脳が受信したマインドの記憶のことを云い



意識とは、その思考と一体化してしまった意識即ち神道で云う鏡のことであり

その鏡とは本来は空であり、ゼロであり限りなく拡がっている意識のことであ

るのだが、しかし、現況では思考と混濁し曇ってしまっている意識の状態を指して

意識と言っている。そして思考の記憶と一体化して混濁し自らを知らないこの

意識こそ私達の現状なのではないか?




私達とは意識であって、意識を覆い包んでる思考ではないということだ。

私達は肉体に入り脳と結合した意識(表面意識+潜在意識)なのだ。そしてこの

混濁した意識には知ることの無い(意識から思考が脱落したときに顕れる)状態

この意識から思考が剥がれた時に意識に顕れるのが私達には未知なる超意識

だと云われている。


即ち、この意識即ち思考と混濁してしまっている私達は肉体に入って

条件づけられている脳が受信したマインドの記憶を、自分だと信じ込み

この「意識である鏡」を覆い尽くし、意識を覆っている「思考=私」メモリー

が自分だと錯覚してしまっているのである。何故ならばこのメモリーこそ脳に

絡みつき、起こったことの記憶であり、数々の場面で「私」として考えたり、信仰し

たり、悩んだり、探求したり、質問したりして肉体の死後も生き続けているからである。


そしてその記憶に私達である意識・・鏡であり、本来は太陽の光を輝かす私達、

意識は包まれ、覆われ、そして混濁し、「雲が大空を覆うよう」に「思考=私」という

記憶に覆い包まれてしまったのである。




私達は本来は空である大空であり、大空を覆う雲なのではないと。

私達は意識であり、決して思考である「思考の記憶=私」ではないと。

私達は意識という鏡であり透明なガラスであって、決してその

意識である鏡を覆っている「思考=私」なのではないと。


その私達ではない「思考=私」が、肉体に私達と一緒に結合し、私達で

あるこの「鏡・透明ガラス・意識」を覆い尽くしてしまっているので、私達

である=意識・鏡・透明なガラスは自分自身を間違って思考の記憶の私が

私だと自己認識してしまっているのではないか。




私達は透明な鏡であって「思考=私」ではなく、その記憶でもない。

私達は肉体ではない、脳ではない、思考ではない、感情ではない、記憶という

対象が有る私ではない。


「私達=意識・鏡・透明なガラス」である意識は、数え切れなく続いている転生で

その都度、肉体の脳に結合し、条件付けられている脳が受信した「思考=私」を

自分自身であると錯覚し、その錯覚が継続し、記憶となって潜在意識層に滞留し

その「思考=私」記憶が潜在意識を占領しているということであると思うのだ。

人類が共有している潜在意識をメモリーが占有しているのではないか?

だからこそ、私達はこのメモリーを愛し、慈しみ、感謝して抱きしめるべきではないのか?


しかしながら

いまこれを思って考えているのも「思考=私」なのであり、決して私達である

空なる意識ではない。・・・この記憶の私は見る主体とみられる客体に知覚が分離してい

るからである。この考えている私とは誰か?探求しているのは誰か?質問しているのは

誰か?恐れ、欲望し、計画し、努力し、至ろうとしているのは誰なのか?

コロナウイルスを恐れているのは誰か?誰が恐れているのか?


・・それは勿論、メモリーの私であって、思考の記憶がそのように反応しているのだ。

・・・それを私達は自分の意識だと錯覚している。

と今朝、思索した・・しかしこれらの思索もこれもまた意識ではなくて思考なのである。

考えだからである。

しかしながら、思うにこの思考は思考ではあっても正しい思考なのであろうか?