私を愛する



私を愛そう
     愛がなく、暴力的で、嫉妬深く、人を軽蔑している高慢な私を愛そう。

私を抱きしめよう
    恐怖におののいている私、何も知らず何も分からず何ものでもない苦悩する私を抱きしめよう。

私を赦そう
    人を苦しめ、他人のことを考えずに自分勝手で害毒をまき散らしている私を赦そう。

私を悔い改めよう 
    何も知らないのに知っていると思っている私は自分自身なのだと素直に認め悔い改めよう。

私に感謝しよう
    私が生かされていることに、そして私は「私の基底である未知なる私」に、更に既知なる私自身にも感謝しよう。





※私とは、内側・内部に意識として顕れている私の事であり、それは同時に外にあなたとして顕れている私であり
  私とは目の前のあなたでもあるということだろう。目の前のあなたとはこの現在の私を映している神聖なる鏡。

※高次の私と低次の私に分割し、数々の私に分離している私とは「記憶の反応の私」であり、それは思考であり
 メモリーの反応であることだろう。自我が自我を知覚認識しており、自我が終焉しているところには自我はなく
 完全完璧なる「あるがまま」が知覚されていることだろう。自己・自我を知覚していると私は、知覚されている私、
 即ち無知・恐怖を本質とするその記憶の反応であろう。
 その記憶の私、メモリーの私、すなわち自我が自我を心底から愛し、感謝し、許し、悔悟し、感謝すること
 ・・それが肝要だということなのではないか。

※自己を低次と高次に分離・分割し非難し識別しているその記憶の反応の私も鏡が存在していなければ
 存在することは出来ない。自我、現在のパーソナリティーとは太陽を映し出す神聖なる鏡があるからこそ
 実存できている。決してこの複合している自己・私を高次と低次に分離分割することなく、自分自身を未分化
 のままに感謝し、許し、愛することこそが生かされている私の勤めであろうか。


※起こる出来事は、起こるべくして起こり、そして去って行く事だろう。全ての起こるであろう出来事をそのまま
 すべてを拒絶することなく心から感謝して有り難く受けとる事が、この「複合している私」の勤めであろう。
 何故ならばこの現象界さえも二元性として完全完璧であるから。


※或る教えから抜粋

現段階の平均的パーソナリティーは何であれ潜在意識のなかに貯蔵されているものを使うことができるだけです。
彼らは出来事が起きた後にその出来事を生きるのです。彼らはその出来事が起きている最中に参加することはできません。
言い換えれば、その出来事が進展しているときにそれを変えたり、それに加わることはできないのです。
それを行うためには人は不定形の諸体に関するワークを行い、それを発達させ、完全に再形成する必要があります。