葛藤を見ているのは誰か?
まずはじめに私達は起こっている葛藤に対して、葛藤を理解し、愛し、感謝して
一緒にいてあげているのではなくて、葛藤を非難し、逃避している。
決して葛藤を見ていないのである。見ていると思っているが実は逃避し蓋をしている。
私達は葛藤を理解するのではなく、葛藤を見ると称して葛藤に対して思考で以てラベル
を貼り、非難し、整理し、判断し、評価し、葛藤を見たつもりになっているのではないか。
私達は決して葛藤を見ているのではない。葛藤から逃避しているのである。
自分の心の中に自我と、自我の恐れと葛藤と欲望を見ている私とは誰なのか?
他人の心の中に自我と、自我の恐れと葛藤と欲望を見ている私とは誰なのか?
自他の心の中に去来している自身の姿を見て、葛藤を実感しているこの私とは誰か?
常に自己実現を目指し。目標を立てて、一番になろうとし、神の元に至ろうと、努力
し、善悪に捕らわれ。高低に惑わされ、生死に翻弄されているこの私は誰なのか?、
私とは目の前の他人なのに「目の前の相手の鏡に現れているのは他人の自我だ」と
そう実感しているのは誰か?
自分は葛藤であり、私は恐怖であり、私には愛がない、私とは自我だと、そう思っているも
のは誰なのか?それは葛藤自身なのではないのか?
他人の中に自我を見て、そして自分の中に自我を見ている私とは誰か?
「私とは私を苦しめている目の前の相手ではない」、相手が問題だ、とそう思っているのは誰か?
それらは「心である現在のパーソナリティー」を覆っている私という観念のメモリー(潜在意識にある
条件付けられた思考の記憶)なのではないか?
私の中の「潜在意識の中にある私という観念」がその様に思っているのではないか?
それは自分の記憶の反応を、「自分の鏡」に、そして「相手の鏡」に投影して、自分の記憶の
反応を他人の反応だと見ている「自我・メモリー・思考の記憶」なのではないのか。
・・それは自分のイメージ・メモリーを相手の鏡に投影して、悪いのは相手だと思い違いしている。
私の中に葛藤や衝動や欲望や希望や期待や問題や心配を見、そして記憶を世界に投影して
世界を見ているものは誰か?
それは私を構成している、潜在意識の中にある自我・メモリー・思考の記憶なのではないか。
記憶が見ているのは記憶なのだ。記憶が記憶を世界に投影して見て、そして反応している。
私は肉体だと思い込んでいるものは誰か?五感を使用し、頭を使って思考しているのは誰か?
それは自我・メモリー・思考の記憶なのではないか。記憶とは潜在意識の中にあり、潜在意
識は総ての人類で共通のクラウドサーバーに繋がっているのではないか。
しかしながら真実とは
私は肉体ではなく、肉体は大生命の作品であり、ここに大生命が生きておられるのだ。
同じように思考も思考の記憶である私も、それは起こっているものであり、システムとして
神聖なるマーヤとして、この現象世界に起こっているのであろうか。そこへエデンの園から
追放された現在のパーソナリティーが再び父の元へと戻る為にこうして転生しながら現象
界に降下して学んでいるのではないのか?
では話しは元に戻って
私はそれらメモリーではなくて内奥の神の子だと思考しているものとは誰だろうか?
思考が有る限りはそれもまた、巧妙な思考の記憶即ち私という観念なのではないのか。
何故ならそれは思索しているからだ。思考がある限りは真実は知覚されないだろう。
思考が終焉し、現在のパーソナリティーが「透明・ゼロ・空・無」とならない限りは、既に
繋がっている「意識を超えている超意識」は姿を顕さないことだろう。思考とは潜在意識
に滞留する「記憶の反応」だからであろう。
内奥の神の子が顕れる為には、自分を神の子だと錯覚している巧妙な思考
の記憶、,即ち私という観念が脱落しなければならないのではないか。現在のパーソナ
リティーが純粋にそして、透明に、空にならなければ内奥の光は輝かないことだろう。
如何にその狡猾で巧妙な思考の記憶、即ち私という観念が私は神の子だと思っても
その記憶の意識が万物と分離していると実感しているならば、その私とはまさに思考の
記憶にしか過ぎないことだろう。
思考の記憶は必ず「自分は万物ではない」と実感しているからだ。
思考の記憶の私とは、またその私とは心である現在のパーソナリティーの私ではない。
現在のパーソナリティーである私は自由意志を駆使して透明になり「空」に成長する
可能性が有るのだ。サイコノエティック体が成長し、脱皮し高次ノエティック体へと変身
する可能性があるのだ。・・・それは思考の脱落が起きたときであろうか?
その私という観念・自我は「自分は他人ではなくて、他人は自分とは別の存在だ」と、思い
「私は目の前の敵ではなくて、敵は私ではない」と思い込んでいる。
これを逆に言えば敵は私であり、「目の前のあなたは私自身だ」と実感しているのは
思考の記憶の反応ではない・・未知なる内奥の神聖なる超意識だということだろう。
しかし残念ながら、殆どの人類の
現在のパーソナリティーの目は開いていないので、現在のパーソナリティーが見ているのは
このメモリーが見ている自己イメージである内部と外部なのだ。
自我・私という観念は必ずや対象を自分とは別の存在だと見ていて、「私は対象ではない、
私は対象ではなくて、対象は私とは別の主体だ」と思考の記憶はそう思っている。
「私は万物とは別の存在で、私は万物を対象と知覚している独立した主体だ」と必ずそう思っている。
私は自分の力で生きていて、私は万物とは別の独立した主体だと必ずそう思っている。
この人生は自分が切り拓き、自分が行為して、自分の努力で生きている、自分の人生だと実感し
この記憶の私とは神が使って演技しておられることを知らない。
この記憶の反応の私は神が生きており、神以外に何物も存在していないということを決して知らない。
この「私という観念という記憶の私」が脱落しない限り、「起こっている出来事」からの解放はない
ことだろう。透明なガラスから付着している「メモリー」が脱落しない限りは内奥の太陽は輝かない。
「起こっている出来事」である記憶の反応は、起こっている出来事の一部として巻き込まれている
、記憶の反応とは起こっていることの一部であるからだ。従ってその記憶の反応の私は「起こって
いる出来事」を変えたり、コントロールしたり、参加することは出来ないのである・・・と教えられている。
※私達現在のパーソナリティーとは氷山の一角のように、総ての氷山とは水面下で
繋がっていると推測されるが、その水面下で繋がっている部分が人類の潜在意識
であり、その潜在意識が思考の記憶(メモリー・条件づけられている脳が受信した
心のこと)によって汚染されているので、その潜在意識を含め表面意識が浄化され
透明になり、空となることによって、内なる霊魂(神聖なる鏡)と一つになり、大いなる
太陽の光を反射することが出来るようになる・・と推測される
■神聖なる実在・大生命・至高の愛・全体・I AM THAT I AM
⇅
■超意識(鏡・霊魂・永遠のパーソナリティー・観照者)
⇅
■表面意識(空・透明になることによって超意識が顕現する/未形成の現在のパーソナリティー)
⇅
■潜在意識(この潜在意識の中に「条件付けられている思考の記憶とカルマが固着しているが
カルマは肉体が通過するであろう行為と出来事と衝動を決められているように
決まった時間と場所にて正確に実行される)
※私達現在のパーソナリティーはこの潜在意識にある「メモリー・カルマ」に対して愛し
感謝し、悔悛し、懺悔し、これらを浄化して下さるように内なる神聖なる存在に帰依し
礼拝し、懇願することが大切であると確信している。