心と思考は異なる
心は思考とは異なっていると言われている。
さらに心と「注意」や「気づき」はそれぞれ異なっているという。
思考とは記憶であり、観察者であり、それは私だと自分を実感している記憶の反応であ
るし、それに対して、心とは本来は透明なる鏡のことであり、それは又、すなわち未形成
のサイコノエティック体という現在のパーソナリティーのことでもあろう。
さらにその透明になった鏡に映し出され輝くのが観照者である永遠のパーソナリティーで
あることだろうか。
つい最近まで心と思考を同じものであるとばかり思っていたのだが、Kの最晩年の
講話を聞いていてハッキリとそれを別のものであると述べていたので疑問が少しづつ
溶けていったのだ。
現在のパーソナリティーである私とは未形成のサイコノエティック体のことだが
それは死後も生き続けているメモリー・私というエレメンタル・人格のことではない。
現在のパーソナリティーというサイコノエティック体は魂とコーザル体で繋がっている
からだ。
その死後も生き続けているメモリーの私とは記憶の反応であり、決して現在のパーソ
ナリティーであるこの私のことではない。(残念ながら現在の時点ではこの現在の私は
目が覚めておらず眠りこけているのだが)
肉体に入って脳と結合したのはこの現在のパーソナリティーである心だけではなくて
その心にぴったりとくっついている「メモリー」記憶(エレメンタル)の私なのでもあり
脳を通じて、知覚し、認識しているのはそのメモリーの私が活動しているのではないか?
通常はその肉体に入っている心(現在のパーソナリティー・サイコノエティック体)は未成
熟なために、その心にぴったりくっついている「メモリーの私」を私だと誰もが思い込んで
いる。
しかしながら現在のパーソナリティーの私は眠り込んでいるので、その自分を私だと思
い込んでいる私とはメモリーの反応の私なのである。
(しかし覚者の私はそうではなくて鏡に映る万霊なる太陽の私と一体化している)
私達の心はコップの中の水のように心は思考と混濁して「濁った水」のようになって
しまっている。
現在のパーソナリティーはメモリーの私を自分自身だと固く信じ込んでしまっていて
表面意識で機能しているのは殆どが記憶の反応であるメモリーなのだ。
肉体の目を通じて世界を見ているのはその思考なのであり、その思考が判断したり、
観察したり、善悪を思い、敵と味方を選別しているのではないのか、この意識的自己
とはこの思考の反応であり思考の私なのだ。
メモリーが生き続けていて私を詐称している。
現在のパーソナリティーである心はこのメモリーという私に完全に占有されている
ので、自分自身をこのメモリーの私だと思い込んでいるが私とは決して潜在意識に
棲んでいるこの自我=思考なのではない。
きっとKのいう気づきとか注意とかいうのはその思考が脱落して透明になった心に
顕れてきた観照者・永遠のパーソナリティーといわれている超意識の事だろう。
現段階では殆どの人では、心ではなくて思考が肉体の目を通じて見ており、思考が
観察し、質問し、色々と考え、実績を積み重ね、発明し、思い、哲学し、修行し、行為し
判断し、その思考が自分のことを私だと信じ、肉体も自分のものだと思い、肉体の
死後もその私という観念のメモリーが生き続けているのではないか。
脳と結合し、脳の働きを自分の働きと思っている私はその思考であり、そのメモリー
なのだ、心である私は未成熟故に思考と自分の識別が出来ていない状態なのだという。
心である私が自分を本能や思考や潜在意識だと錯覚している。
しかしながら「心である私」とは肉体でもなく、本能でもなく、脳でもなく、脳の働きでもなく、
思考でもなく、思考の記憶でもない。
私達とは現在のパーソナリティーであり、太陽霊の輝きを反射できる鏡なのであるという。
若しくは太陽に光を通すことの出来る透明なガラスなのだという。しかしいまは悲しいかな
メモリーに覆われ、メモリーに同一化している、心は未熟で透明ではないからだ。
だからこそ私達は心であり、思考という観察者の私は私ではないこと、判断したり、逃避したり
しているのはメモリーであり、私という現在のパーソナリティーではないことを知るべきだろう。
目の前の「私の前にある鏡」に映っているのは「相手の自我」なのではない、私の自我だ。
その目の前の相手とは「相手という合わせ鏡」に映っている現在の私パーソナリティーの姿
であり、私のメモリーの姿なのである。
相手とは自分と同じく神聖なる鏡なのだ。
私達は未熟なのでこの輪廻転生している世界で本当には他人に出逢ったことは人生で一度
もないのではないか?常に私である心を覆っているこの思考が、相手の鏡に映る自分の姿を
他人だと思い込んで怒ったり、軽蔑したり、戦ったり、非難したりしている。
自分のイメージを他者の鏡に投影し(自分の自我メモリーを投影し)それを他人・汝だと錯覚
し相手を非難し、相手を馬鹿にしている。・・・それは実はメモリーである自分の姿なのに・・・。
通常の人生では私達は他者に出逢っていない。出逢っているのは他者の鏡に映る自分自身
の姿なのではないだろうか。総ての本当の他者とは同じ鏡であり、同じ神聖なる存在なのである。
憎んでいる相手とは私である鏡を覆い尽くしている私のメモリーの私自身なのであり、そのメモ
リーの私とは鏡の私に責任があるのだ。
何故ならこの私とは、その現在のパーソナリティーを覆い尽くしている思考でありメモリーの私であり、
その「私は私だ」と実感している私とは、鏡である現在のパーソナリティーが未発達で眠っている
状態なので、「鏡である現在のパーソナリティー」は起こっている出来事に巻き込まれてしまい
不本意に反応した結果として生み出されてしまったのが私達が生み出したエレメンタルの集合体な
のであろう。
それが現在のパーソナリティーに取り憑いている「私という自我・メモリー」なのではないか?
この記憶の私とは、心である私たちが未発達なので心である私が生み出してしまったのではなかろうか。