眠ったままの現在のパーソナリティー



私である現在のパーソナリティーは眠ったままであると賢者はいわれる。

弘法大師は「生の始めに暗く、死の終わりに暗し」と、目が覚めないままに輪廻を

繰り返している私達・現在のパーソナリティー(サイコノエティック体)に対して

警鐘を鳴らしておられる。





では

この朝に、ベッドから目が覚めて毎日の仕事と生活をこなしている私とは一体誰なのか?

悩み苦しみ、やっとお金を貯めたと思ったら、全てを失う・・一喜一憂、喜怒哀楽の、善と

悪の、勝者と敗者の人生劇場を必死に努力して生きている私とは一体誰なのか?

真剣に考え抜き、探求し、質問し、思い悩み、修行しているのは誰なのか?

生まれ、成長し、病気になり、歳をとって死んでいくと自分を肉体だと確信し続けているの

は誰なのか?



それは

内奥では霊魂と繋がる「私である現在のパーソナリティー」を覆い包んでいる思考の

記憶・メモリーの反応なのだといわれるのだ。この記憶メモリーとはGIグルジェフによれば

「人格」と呼ばれていて、幾多の段階のある現在のパーソナリティーという「本質」とは異なって

いる。

さてこの私とは誰か?この私とはこの「人格」「と「本質」がミックスしている存在である。

現在のパーソナリティーの私が自分と世界を見ているのではなくて潜在意識であるメモリー

が世界を見ている。現在のパーソナリティーは正しい自己観察と自己想起によらねば目を

覚ますことはないだろう。毎日の生活で忙しく働き、起こっている悲惨な出来事におののき

内部や外部の世界で葛藤し続けているのはそのメモリー自身なのだ。メモリーがメモリーを

投影して外部に世界を見、そして内部に恐怖と、自我を投影し見ているのだ。



ここで注意していただきたいのは〈肉体に入って脳と結合し〉自分を私だと意識しているのは

①と②の私なのではないか。

           ①思考の記憶(人格)の反応

           ②殆ど眠りこけている現在のパーソナリティー(現在の私の本質)の反応

           ③脱皮し、再形成された現在のパーソナリティー(サイコノエティック体)が
             時空を超え、自他の分離を超えた霊魂と繋がった眠ることのない第4の意識。
             (「自他に分離している私」という私を含まない全体である私の意識)

                      ・・という意識の異なる状態があるということであろう。


その「私という観念」である思考の記憶である自己意識(人格という仮面)、

そして、

眠ってしまっている現在のパーソナリティー(仮面の奥の幾多の段階のある私・本質)

を見ているのは

「思考を超えている目」「自我を含まない目」「注意」とか「観照者の気づき」とか言う言葉で

示されている開眼している目(再形成された目、未知なる私の目)であることだろう。

科学者や天才にも全く知られていない心を超えている第4の意識があるというのだ。




■ この「開眼している目」から熟睡という状態を見た場合

   ① 熟睡中の頭脳のある部分には思考のメモリーが結合しているので、その脳の或る部分が眠ると
     一緒に記憶メモリーも眠ってしまい、その記憶の反応(即ち私たちの現在の状態の意識)が活
     動していない状態、即ち熟睡している状態、そのマインド(潜在意識)が働いていない状態となる。
     (この記憶の反応即ちメモリー・潜在意識とは脳と接合していても脳自体なのではない)

   ② しかしそれと同時に現在のパーソナリティーのサイコノエティック体は再形成されていないので
      眠ってしまっている状態にあり、現在のパーソナリティーの現在意識はメモリーの反応だけに
      占有され一体化してしまって一緒に眠っている状態になっている。
      この段階の現在のパーソナリティーは夢を見ている状態であり「自分は眠ってしまっている」
      のだということ、自分は眠ってしまって目が覚めていないことを自覚できない状態にある。
      肉体の反応ではない夢の中の自己意識が、目が少しでも醒めているのなら「自分は今、夢を見
      ているのだ」と意識できるという。
   
   ③ しかしながらマインドというメモリーの活動が休止中で、しかもそれと一緒に開眼していない
     現在のパーソナリティーも眠ってしまっている(再形成されていないのでサイコノエティック体
     の目が開いていない)ことを見ている「永遠のパーソナリティーである観照者の目」は実在し
     ている。(私は経験がないのだが)・・それは熟睡中も、思考なく、判断なく愛を以て観照している
     ・・という。


     熟睡中は
     マインドというメモリーは眠っていること、
     そして未発達で未形成の現在のパーソナリティーも一緒に眠ってしまって夢を見ていること、
     しかし、熟睡中にもかかわらず
     もし開眼した場合それらを観照している(思考なく見ている)のは第4の意識であるということ
     〈現在のパーソナリティーのサイコノエティック体が再形成されたときには〉「思考なき目」がそこ
     に顕現しているという。 


人類の教師は私達人類に対して・・「見ていますね、熟睡中でも思考なく見ていますね」・・・と私達に念
を押しておられる。

この熟睡中にもかかわらず途切れることなく観照している第4の意識とは現在のパーソナリティーが再
形成されて内なる永遠のパーソナリティーの目と繋がらないかぎりは開眼しないことだろう。

ということで教師達は毎朝ベッドから目が覚めた私とは現在のパーソナリティーの現在意識ではなくて思
考という潜在意識・メモリーの反応であり、メモリーが私達の毎日の家庭や仕事という日常生活で反応し
ていると教えておられる。質問し、考え、学習し、行為し、悩んでいるのはこのメモリーなのではないか?


だからこそ「あなたたちは眠りこけているのだ」「眠ったまま転生を繰り返している」と言われるのではないか。
私達現在のパーソナリティーは残念なことにまったくメモリーという潜在意識と一体化しているのだ。