世界教師の言葉
世界教師の言葉を理解するには、同じ境地に至っていなければ理解出来ないのは当然だが
「群盲象を撫でる」の喩えのように、それでもこの「めくら」の私が敢えて恐れながら推測してみたい。
◎思考者はいない、思考が起こっているだけだ。
◎行為者はいない、行為が起こっているだけだ。
◎見る者は見られるものである。
◎観察者は観察されるものである。
◎思考なく、心なく、私なく見なさい。
以上は世界教師の教えの要約であるが
この言葉を理解する為には「理解」が訪れていなければならず、凡人の私には全く到底理解出来ないのだ。
しかしながら
私達凡人には思考が終焉したときには、見る者は見られるものであり、対象と主体は一つになっているの
だろうということは想像だけはすることが出来るのではないだろうか。
この思考が脱落しているときには、おそらく「見るものは見られるものである」であり、観察者は観察される者
であり、主体は客体であり、私はあなたであり、万物がわたしであることだろう。そこには何ものも分離してい
ないのであろうか?・・・(私という思考には推測すら出来ないのだが・・)
想像するに・・
この「思考ではない目」には内部と外部、私とあなたという分離分割の無知はなく、全体、万物だけがあるということな
のであろうか・・
そこには低次の私や高次の私という分裂がなく、見られている対象の私やあなたが存在していないということだろう。
この「見」は脳の機能の認識ではないので、全てを同時に見ており、地球の世界の裏側まで同時に知覚していること
なのだろうが、その状態の「見」をこの脳の記憶の反応が理解することはないだろう。
この目には思考の実体や根源が見えていることだろうし、行為の根源が見えていることだろうし、私という根源が見
えていることだろう。私という恐怖と自我の実体とその根源が見えているのであろうか?
いずれにせよ概念や思考や情報を超越している根源のことを、私達人類の思考や想念や概念や言葉で表現する
ことは誤解を招くだけだし、何も分からない私がそれについて話すことの全てが「群盲象を撫でる」状態であることは
分かっているのだが、それにもかかわらず敢えて挑戦しているのである。
私達は思考であり、「私思考は分裂しており、なろう、至ろうとしている時間の運動であり、この私思考のすること、為すこ
ととは、全てが自己本位であり、自己関心である」と言っているのは、まさに思考の認識なのであり、それは思考を凝視
している「思考を超えている目」による「自己自我観察」なのではない。思考が思考を知覚し認識しているのである。
思考がない目には全てが完全完璧であり、愛に溢れていることだろう。
私達である思考は、「私とは愛が無く他と分離している」とそう思っている。私は脳の記憶の反応だとそう実感している。
・・世界は分離しており、私は対象とは独立した実体であり、観察者という主体であり、私が行為し、私が思考していると
・・その様に実感して、自分は肉体であり、個人であり、私は他者でもなく、万物でもない・・と思考はそう思い込んでいる。
・・・とその様に見ているのは思考なのであるということに思考は気が付かない。
善と悪、神と悪魔、敵と味方、私とあなた、内部と外部に分離・分割し、私とは思考の記憶だとその様に実感している。
・・・しかしながらそれは思考が実感している自分の姿であり、その自己認識それ自体が思考であるのだと気が付い
ていない。
確かに思考の見る目には、私は私であり対象ではないし、私は主体であるし、私とは愛のない記憶の反応のように
見える。
そして私は他者と分離し、万物と分離し、内部と外部、内側と外側は何の脈絡もないし、分離している。
私とは他者や万物とは別個の存在だと・・そのように実感されている。
思考の記憶の反応には全ては分離され分割されているように思えるし、私は全体と分離しており、私は決して全体で
あり一つでワンネスなのではないのだと見えている。しかし人類の教師は「見るものは見られるものである」と教えら
れている。
確かに思考には自分は思考であり、思考の記憶の反応であり、その本質は無知という恐怖であるように思える
のだが、それは思考が思考の目で以て自己自身を間違って自己観察しているのであり、思考が見ている事実とは
単なる思考の運動であり、その思考の「目」では、自身である思考そのものを直視することは難しい。
思考という観察者が見ている世界、即ちこのウイルスが蔓延している世界のことだが、これは主体と客体が分離し
ている世界、内部と外部が別れている世界、私と全体が分離している世界、善と悪があり、私は愛ではなく、世界
万物と私が分離している世界、のことであるがこれは思考が見ている内部と外部なのであり、思考なく見ている目
の世界、現象の実体、現象の奥の実相なのではなくて、思考が思考を思考でみているのであり、それは決して思考
なく思考の実相を見ている実相の目なのではない。
私達である思考が見ている世界即ち内部と外部が分離し、「私は万物ではない世界」とは私達である思考の状態なの
であり、私たちは自分は世界を見ているのだと勝手に想像しているのだが、実際は私達が見ている世界とは、私達
である思考が見ている私という思考自身の姿なのであると世界教師は語っているのであろう。
ここでもう一度、黒住宗忠の「立ち向かう人の心は鏡なり、己が姿を映してや見ん」を思い出している。
世界教師は鏡を覆い、鏡に映し出されている「思考の記憶」「メモリーの反応」に対して、即ち私達人類に対して、即ち
人類という共通の「マインド・潜在意識」に対して語りかけておられるのではないか?
世界教師・・そこには人類が想像することもない「愛」であり、決して思考には推測すら出来ない非分離、非分
割であり全体で分離していない「実相の目」が顕現しているのであろう。