鏡を覆うもの




神道では鏡を御本体として崇敬しており、

その鏡は太陽を映しだし、その光を世界に放射している崇高なる霊魂のことであるという。



しかしながら現在の状態では

鏡自身(空・時空を超えた透明な心・透明なガラス)は未形成の諸身体に覆われ包まれており

それだけではなくて、かつ更に頑丈な真っ黒いメモリー・思考の記憶に被され閉じ込められているという。



メモリーたる記憶から解放され、鏡を覆う諸身体が透明にならなければ太陽の光は届かない。

・・・これが地球の私達のあるがままの現在の状態を示す話であろう。



さて、「立ち向かう人の心は鏡なり、己が姿を映してや見ん」とは神道の黒住宗忠の教えであるが

この言葉は、人々とは合わせ鏡(神の分け御霊)であるのだが、しかしながらその合わせ鏡とは

未形成の諸身体さらに思考に覆われてしまっている・・と、その状況を的確に表現していると思える。



私達の本体である神聖なる鏡は未形成の諸体に厚く包まれ、そして頑丈な黒い思考・メモリー

に閉じ込まれているので光を放つことが出来ないような状態に陥ってしまっているということだろう。


根源たる太陽神と一つになった黒住宗忠が教えられるように

私たちの目の前の相手とは、(私達とは本来は太陽を映す鏡であるのだが)、全員がこの同じ

様に鏡が思考によって覆われているので、私たちはお互いに「他人は自分とは異なっている」

のだと錯覚し、そのように相手を知覚している。

相手の鏡に「記憶の私」という自分自身を投射して、自分自身を「他者」として知覚認識しているの

に気が付かず相手を非難し、競争し、嫉妬し、支配しようとしているということなのだろう。


目の前の他者・あなたとは、実際には現在の私(鏡を覆う思考という私)の状態を映しているのである。



この鏡を覆う記憶とは人類共通のメモリーのことであり、メモリーとは条件付けられた脳で受けとった

思考の記憶の反応のことであり、その記憶とは地球を覆ってしまっている人類で共通の同一の潜在

意識であるということだろう。


この現在の自己意識の私とは、その膨大な海のような潜在意識と繋がる条件付けられている脳に

よって受信された思考の記憶の反応であり、人類で一つで、同じ「私という観念・思考」の記憶の反応

であり、それがこの鏡を覆う現在の私の正体なのではないか?





その人類で同一、且つ共通の思考の集合体・「私という観念」がそれぞれの肉体に、この鏡

や未形成の諸身体と共にそれぞれの運命とカルマを伴って肉体に入って、私の現在意識と

して、世界を分離して知覚し、世界と私は異なっていると認識しているというこだろうか。



その潜在意識という思考の特徴とは何だろうか?

その同じように覆い閉ざされている他者の鏡に「私という思考・メモリー」を投影して

「あいつが悪いんだ!」「あいつが俺を侮辱した!」「あいつが俺を欺したんだ!」「許せない!」

「あいつは悪魔だ」と怒り、

嫉妬し、競争し、支配し、独占しようとし、安定を求め、憎み、恐れ、そして闘い、殺し合っている。





いずれにせよ、鏡と一緒に、肉体に入って脳と結合した「再形成途中の私達」は未だ眠っ

ていて、目覚めていない状態なのだ。・・・だとするとこの目覚めている私という自己意識とは

何であるのだろうか?


朝に、目が覚めて覚醒してると思っている私とは鏡を覆う思考・メモリーの反応に他ならない。

このいまPCに向かって意見を書いている私とは思考であって、鏡の私ではない。


学校に行き学ぶ私、仕事をしている私、テレビを見ている私とは、鏡を覆う思考に他ならない。

朝に、ベッドから起き上がり覚めて目覚めていると思っている私とは、その鏡を包んでいる

人類共通の「私という観念」という思考に他ならないのではないか。



現在のパーソナリティーという可能性のある心(形成途中の諸体の私)はその鏡を覆っている

思考と完全に一体化してしまっている。


思考というメモリーに覆われた現在のパーソナリティーである心は、思考と一体化してしまって

いて気づいていない、注意していない。


心は思考から解放されていないのだ。

従って心は、鏡に帰依すべきなのに自分はこの記憶の反応の私だと錯覚し思考している。


・・・それが現在の地球人類の潜在意識に覆われ目覚めていない心の情況なのではないか?





太陽神と一つになった黒住宗忠は言う

その神聖なる無知である思考というメモリーから解放され

鏡と一つになった透明なる心の黒住宗忠は言う

「全ては神であり、全ては完全完璧である」と。



その鏡そしてその透明なる心は太陽を映しだし、

「一切万物すべての親神が天照大御神(太陽神)であり、その尊いはたらきの中であらゆるものが存在し、

人は天照大御神(太陽神)の「ぶんしん」をいただいた神の子である」・・と正見するのだろう。



本来透明なる心なのに、その心が同一化してしまっているメモリー・思考とはなんだろうか?

「神聖なるマーヤである起こっている出来事や起こっている思考」を、条件付けられている脳が受信して

生み出したのが思考の記憶であり、それが鏡を覆っている記憶の私のことだろう。

それは条件付けられている脳が受信している思考であり、その思考の反応なのではないか?



ではその記憶の反応とは何か?


思考の記憶の反応とは私であり、観察者であり、経験者であり、監視者であり、知覚者であり

善と悪に分けること、敵と味方に分けること、自分を肉体だと思い込んで自分は○○民族だと

○○国民だと思ってしまうことをしている。自分は観察者であり、自分に起こっている醜い欲望や

恐ろしい自我や、高慢で狡猾で全てを利用している低次の自己を観察している観照者だと思い

込んでいる。それが観照者という透明な心であるなら、そこには愛と感謝が溢れていることだろうに・。

それらは思考の記憶である自分自身の姿であるのに思考の記憶は気が付かない。



またその思考の記憶は

最高と最低、自分自身を高次の私と低次の私に分割して実感している、天使と悪魔に分けてみている。

全てのあるがままを完全完璧ではなくて、弱肉強食の競争世界だと見ている・・それが思考の特徴

なのではないか、思考が自らを対象として知覚認識しているからである。


全ては神であるのに神以外に何かが見えていること・・それが思考の特徴なのではないか?


ということだろう。




だからこそ

この鏡を覆う思考の記憶が脱落したとき全ては神であり、全ては完全完璧だと実相が見えてい

ることだろう。

「世界は完全完璧ではない」「私は世界ではない」と見えているのはメモリーであり、鏡を覆ってい

る思考なのであろうからである。

「なる」「する」「至る」「思考する」「記憶する」のはメモリーであり、その鏡を被っている思考の特徴

である。

そしてその脳の条件付けで発生した思考の記憶は、「私の自由意志」として、「私の自由」として、

「私の行為」として、「私の私」として反応している。

しかしながらその記憶の持っている意志も行為も自由も私も記憶の条件反応に過ぎないことに

記憶は気が付かない・・・その行為も思考も条件反応で起こっているに過ぎない・・夢と同じように。


その意志も自由も行為も「鏡の私」ではない。記憶の反応が「すること」「思うこと」「行うこと」「願う

こと」は鏡を覆う記憶の反応であり、

それに気がついた記憶の反応の中では、今度は「しないこと」「思わないこと」「行わないこと」

「願わないこと」をしようとするが

それも又その記憶の反応に過ぎない。


記憶の反応での一番正しいことはこの自分自身である記憶の反応に対して、熱意と誠意を持って心から

「感謝すること」「お詫びすること」「礼拝すること」「帰依すること」「愛すること」「悔悟すること」であろう。