トリプルAAAの教え




クリシュナムルティーの教えは最高難度トリプルAAAであろう。

その教えは要約すれば

●「見るものは見られるものである」

●「観察者は観察されるものである」

●「私なく、思考なく、心なく見よ」

●「あるがままをあるがままに見よ」

●「思考者はいない思考が有るだけだ」


などなどであるが、これらはいずれも思考を超えている「未知なる目」から


人類に語られている言葉、理性による理解を超えた叡智からの言葉である。

この一見単純に思える教えは、古今東西歴史上数多くの色々な教えの中で

光り輝くおそらく最高難度の教えである。

世間で広く知られているホ・オポノポノのヒューレン博士も同じようなこ

とを講話などで話しているので多くの方に知られているのだが、

衆生救済の方便を多用しているヒューレン博士はクリシュナムルティーと

近いところにいることであろうし、わかりやすい言葉を使用しているので

あるけれどもクリシュナムルティーと同じように実はヒューレン博士を正

しく理解するのはとても難しい・・・理性や知性や論理や科学的思考では

接近することは不可能であるからだ。


では、その「見るものは見られるものである」とは一体何のことだろうか?

おそらくクリシュナムルティーに始めて触れる人は何のことやらさっぱり

判らないことだろう。

かく言う私もその判らないうちのひとりなのではあるけれども、頭を捻っ

てみたい。



そのクリシュナムルティーの言葉を単純に額面通りに解釈すれば

「見ている主体と、みられている対象である客体は一つであって分離してい

ない」「私はあなたであり」「私は世界であり」「私は万物である」とい

う意味になる事だろうか?実際には全ての原子や分子は同じ構造なのであ

るということ。人類は同じ血液で同じ循環器で同じ呼吸で同じように生命

が生きておられるのであるということ。それなのに私達は国境を設定し、

分割不可能な土地や海に線を引き、自分自身を私とあなたに分割し、自分

のものであるとお互いに権利を主張しているのだが、その私とは一体誰な

のであろうか?

その私とは誰なのであろうか?



ヒューレン博士的に言えば、その私とは、見て、感じて、考えて、欲して

、知覚して、そして認識している記憶であり、そして更に、それは私達の

内面に於いて、その記憶が記憶である自分自身を相手や世界や他人や対

象として知覚認識し、それを自分の内部や外部に知覚認識していると言う

ことであろうか?対象として自分のことを内部と外部に知覚しているのは

記憶であり、記憶が記憶を知覚し、記憶が見ており、そして記憶が記憶に

反応していると言うことだろうか。実相は外部と内部の分割、私とあなた

の分離はなく全ては一つなのに、記憶が人格となり、私とあなたは異なると

分離分割して知覚認識しているのであると。



その記憶の反応である思考が「思考なく見ること」を妨害していると言う

ことなのであろう。

私達が見ているのではなくて記憶が「私が見ていると思っている」とい

ことなのである。何故ならば人格の私にとっては未知である「魂と繋がる

私」は未だ目が開いておらず目覚めていないから・・・。


ここのことを的確に表現しているのは

神道の黒住宗忠であり「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿を映してやみん」

と教えておられる。(しかしこの言葉は思考には理解出来ない事だろう)

他人を見、そして自分を見て観察しているのは記憶であり、記憶が自分で

ある記憶を私自身や他人であると思い込んで非難したり憎んだりしている

のであるが、実はその非難している自分や相手の姿とは、記憶のことであ

り記憶が記憶を非難していると言うのだ。

そしてその記憶が見ている内部と外部の世界とは記憶自身の姿なのである。



それはまた仏教でいうところの「三界は唯心の所現」であり、

唯心とは記憶のことであり、記憶とは「私という観念」のことであろうか。

記憶とは「私という観念」であり、その「私という観念」は根源的な恐怖

であり、根本無知無明という闇であり、自己関心、プライド、暴力、支配欲

拡張欲、「なること」「至ること」「神のようになること」そしてその最

大の特徴は自分自身を分離し、分割し、「愛がないこと」などであろうか。

その私という観念の記憶が人格を構成しているのである。

いずれにしてもこれらの思考の知性を超えている事柄は理性や知性には理

解出来ないので、人類にとっては信仰が必須となるのである。但しこの信仰

とは、エゴが行う自己利益・自己拡張のための商取引の御利益信仰ではな

い。



さて話は元に戻るが

クリシュナムルティーは最高峰であり理解するには彼と同じレベルでない

限り理解は出来ないことだろうから、今までに理解した人は殆どいないこ

とだろう。かくいう私も勿論のことその一人である。



ではクリシュナムルティーの言う「思考なく見なさい」とは何のことで

あろうか?

クリシュナムルティーがいう「思考なく見る」とは思考である記憶の反応

を含まない純粋な目のことであり、一般常識やアカデミーや科学の言う理

性や知性のことではない。記憶の反応である思考のことではないのである。

クリシュナムルティーの言う「見る」とは記憶である思考が働いて見てい

る限りは顕れることがないので思考である知性や理性にとっては「思考

なく見る」ことは理解不可能であり、実現不可能であろうとおもう。思考が

ある限り見ることは出来ない。



その「思考なく見る目」で見る状態とは、どんな状態であるのだろうか?

推測するに、その目とは過去現在未来の時間に縛られていないので、瞬時

に世界の全歴史を見ることだろうし、すべてを理解していることだろう。

そしてその目は現象世界を成り立たせている実相世界を見ている目である

ことだろう。

・・・いずれにせよ私達記憶の思考しか分からないものにとっては皆目分

からないし、理解することも想像することも出来ないのが「思考なき目」

の超々知覚、超意識的意識の状態であろう。私達は私達を生かしてくださっ

ている根源に対して理解が賜るように祈りそして信仰する(但し御利益信仰

のことではない)しか方法がないのである。


ここから先、クリシュナムルティーを理解するには思考では不可能である。



科学的思考である理性や知性とは観察者が観察されるものを対象として見

ている記憶・思考の働きでありそれは二元分離の目である。私という観念

の目である。記憶の目である。私達である個人・人格の目である。



その思考による「見る」とはクリシュナムルティーの「思考なく見よ」の

目で見ている目では勿論ない。現在の人格という記憶の目では彼を理解す

ることは出来ない。



ここでヒューレン博士の助言が大いに役に立つ

ヒューレン博士が常々言っていた「私達は自分が見ていると思っているけ

ども見ているのは記憶が見ているのであって、記憶が感じており、記憶が

求め、記憶が質問しているのだ」と、「考えているのは記憶なのであり、

記憶は記憶であってあなたではない」と言うことなのである。それ故に

理解という恩寵を祈ることである。ここで本当の正しい信仰が必須となる。


私やあなたとは神の子であり、透明なる鏡ではあるけれど、しかし今のと

ころは鏡は記憶に覆われて曇っているので私やあなたの鏡に映し出されて

いるのはその鏡を覆っている記憶であると「思考を超えた叡智と一体にな

った方々」はいうのである。


では「思考なく見る」ためにはどうしたらよいのであろうか?思考が覆っ

ていない鏡には何が映るのであろうか?

そのことを、記憶に染まっているこの私には語ることは出来ない。

クリシュナムルティーはそのときそこには思考や思考そのものである科学

的方法や理性や知性による知覚ではなく、既知なる知覚には想像すらでき

ない、瞬時に全てを理解する「超知覚」がやってきて、その目で時空を超

えた全てを同時に見て一瞬で理解することが「起こる」というのである。

それは別の言葉で言えば内奥の魂の超意識と言うべき知覚認識であろう。

しかしながらそれは記憶によって、記憶の努力や記憶の願望によって齎せ

るものではなくて、私達の絶えざる真剣なワークに対しての結果として

内側からの恩賜として、至高なる実在から「起こる」というのである。


その至高なる実在から起こると云う恩寵があるためには

自己観察と自己想起という絶えざるワークが必須となる事だろう。

自己観察や自己想起をしている主体とは誰か?・・などとそのことを質問

し疑問に思っているのは誰なのであろうか?

それを考えているのは記憶である。であるから私達はその私達自身を高次

や低次の私というように分割せず、そのような質問をする記憶による思考

に振り回されることなく、従って自己を分割せず、複合し、重層したまま

ただただ、あるがままの自己を愛し、自己を観照するワークが必須となる

のではないか。


記憶からそっと静かに離れること、記憶である私から、そっと静かに身を

引いて自分をあるがままに静かに見ること。この自分を優しく受け入れ

愛で包むこと。

私という記憶を観照して思考から静かに遠離すること。

この記憶と一体化せずに記憶に感謝し、記憶を愛すること。

至高なる実在への全的受容、起こる事すべての全てをツベコベ言わずに感

謝して有り難く戴くこと。

一切万物万象への感謝、一歳万物に愛を捧げ、許しを請い、懺悔すること

こそが、その恩寵への前提であるとヒューレン博士は言うのである。