熟睡




今日は熟睡ということに関して思索してみました。

熟睡ということの中には大きなヒントがあるといわれており、未熟な私がこの複雑な現象に
あえて挑戦してみました。


熟睡中でも、肉体の心臓は止まることはなく、呼吸も中断することはありません。


そしてまた、脳の身体維持に関わる部分も眠ることなく働き続けていて、その中で
脳の自己意識や統覚、記憶、知覚に関する部分だけが一時的に働きを中断し
ている・・・それが熟睡中の脳の状態なのでありましょう。


その活動が一時中断している部分とは脳の意識を司る部分であり、その部分である「私・
自己意識」「心」即ち「思考や感情」の働きは行われなくなりますけど、それらが停止していても
生命は維持され、且つ体力は回復されていきます。


肉体を維持しておられる大生命によって脳は中断することなく働き、肉体は維持されていて
生かされているように、この「自己意識である私」は熟睡を挟んでも、毎日繰り返し維持され、
生かされております。


それは即ち
大生命が「私と言う自己意識」を覚醒時、夢見時、熟睡時を通じて生かして下さっている
ということ。大生命がこの私という個人意識を生かしておられるのであるということであり
ましょう。
大生命がそれぞれの特性のある個人の神経や思考や行為や記憶を生かして下さって
いるということのみならず、それは又個人を構成している肉体や未知なる高次の諸身体
をも生かし、脳をそれぞれのようにあらしめている大生命がそれぞれの私として生かし
生きておられるという事でもあるように思われます。


それなのに、それにもかかわらず、この私・自己意識は、私を自分のものだと思っています。
この私は私のものであり、この意識とは私の意識であり、この肉体は私の肉体であり、
この記憶は私のものであり、私の人格は私のものであり、私の思考や行為は私のもので、
睡眠を「私が眠っているのだ」、「私が熟睡したのだ」と思っています・・・が、これはまさに
主客転倒でありましょう。「夢見」も「熟睡」も大生命の力でして下さっているわけです。
・・・実際には大生命が、肉体を生かし、脳を働かせ、私を生かし、特定の肉体に入って脳と
結合し、その様に考え違いしている「私・自己意識」・自我体をも生かし、そしてその私として
生きて下さっているのではないでしょうか。




ではその熟睡とは脳だけの状態なのでしょうか?それとも脳と結合した「私という観念で
ある人格」の意識そして又、現在の私である未形成のサイコノエティック体という意識の状
態なのでありましょうか?


脳のその眠ってしまう特定部分と結合した、その現在のパーソナリティー(「私という観念
の私」に一体化してしまっている)は、脳が眠ると一緒にその「私」も眠ってしまうというこ
となのでありましょう。


少々複雑なのですが、脳と結合した「私として意識されている自己」とは

①「私という観念」を自分自身だと錯覚している現在の私(未形成の現在のパーソナリテ
  ィー・サイコノエティック体)から生まれた記憶の反応である人格の私群(ワサナの私)。

②人格の私を、自分自身だと錯覚している現在の私(形成途中のサイコノエティック体)
  の私。

③「私という観念」の私=潜在意識の私(アハンカーラ)

であると思われるのです。その①~③の私は、脳が眠ってしまうときに一緒に眠ってしまう
のでありましょう(人類の教師は私達に熟睡中に思考なく見なさいと教えられているその目
とは①~③の目ではなくて①~③の私を見ている目なのでありましょう)


肉体と結合し、脳と結合した私である①~③の私という観念の私群が脳と一体化し、脳の状態
に左右され、「私は肉体だ」、「私は眠った」などと錯覚しているというのでありましょうか?


大生命が主人、主体なのであり、「私・自分は主体だと錯覚している意識」とは大生命
によって生じているマインド・現象に過ぎないのではないのかと思われます。


実際には、いまここに大生命が生きておられるのであり、その大生命が私という観念の
私という意識、私という人格、私という現在のパーソナリティーを生み出し、熟睡、夢見、
覚醒を通じて私・自己として生きておられるのではないでしょうか?



久保栄治という現在の私自身のこの未熟で非常に狭い未発達の意識は、私という「他
と分離している自己意識」であるけれども、実体としては、この意識が主体なのではなくて、
生命こそが主体なのあるということなのでしょうか?
生命が無から卵子と精子の結合を通じてこのような肉体を生ぜしめ維持せしめておられ
るように、肉体に入った私という観念や人格を使って演じておられる・・
ということかも知れません。




結論として
眠りとは畢竟、心・マインドの状態であり、マインドだから眠ってしまっているということ
でしょうか。この心、マインドの意識とは私という観念+人格+未形成の現在のパー
ソナリティーの状態なのであろうと想われます。
しかしながら、それらは共に大生命が生かし生きておられるものでしょう。


朝に、目が覚めて起き上がり行動し始める意識とは、実はこの大生命から生ぜしめら
れている私という観念「マインド」+人格+現在のパーソナリティーすなわち、心・思考・
感情・欲望である自己意識なのでありましょう。
それはまた同時に、人格や私という観念と同一化している目覚めていない現在の私(
未形成のサイコノエティック体)の意識なのでありましょうか


朝に、目が覚めて、そして夜にはベッドに入って夢を見て眠っているのはこのマインド、思考
という目覚めていない(蛹から蝶へと脱皮していない)形成途中のサイコノエティック体なの
でしょうか?しかしながらそのサイコノエティック体という現在の私も大生命が肉体と同じよ
うに生かし生きているのではないでしょうか?


日中の自己意識とはこの眠り続けているサイコノエティック体である私という自己意
識、そしてこの体に棲み着いているワサナ、エレメンタルとしての記憶の人格の私、
そして私という観念の私に他ならないと言えそうです。



だからそれ故に、この演じられていて、自由意志を持っていると錯覚している私達・現在の
パーソナリティー(人格や私という観念と同一化している私)はこの自由意志を通じて私達
が輪廻の現象界に誕生した目的を完遂すべきだと思われます。

(※ここで言う私達とは永遠のパーソナリティー(霊魂)にコーザル体を経由して繋がってい
るサイコノエティック体である現在のパーソナリティーやワサナ・人格のこと)



熟睡とは私達のこちら側から見れば、その熟睡時には私達の意識がないので、熟睡を知ること
は出来ませんので、私達の未熟な意識にとっては意識が無い状態(熟睡)とは私が存在してい
ない状態であるのに反して

「思考なく観照している」大生命のあちら側の思考を超えた超意識から見れば熟睡とは生命が
実在していて自己自我意識(マインド・思考)が顕れていない状態なのでありましょう。

それは又、肉体の頭脳の条件付けが解除され、現在の私であるサイコノエティック体が生まれ
変わり再形成されたとき「思考なく見る」その目が光り輝くことなのでありましょうか

それ故に人類の指導者は「熟睡中でも見なさい」、あるがままを思考なく、心なく、私なく見なさいと
言われ続けているのではないでしょうか


要は主体とは意識なのでしょうか?それとも主体とは実在である生命なのでありましょうか?

意識が主体なのではなくて、主体である生命が意識を使っているのではないでしょうか。

大生命・大実在が二元を生み出し、意識を生み出し、私・無明として生きておられる

私・無知・無明は大実在・大生命の演技・映像である

・・・とその様にまったく無知の中にいて身分不相応で経験のない私が頭だけで色々と思索して
みました。