行為の種類と識別


何気なく行われている行為、それは漠然とした行い、思い、欲望、観念それらも行為に含まれるのだと思われます。

ここで初めに、無意識で行われている、神聖なる肉体の細胞による行為に対して心から尊敬と感謝を捧げたいと思います。

現段階の私達は行為という現象をただ漠然と考えていますが実は行為を厳密に識別する必要があるのだと思われます。



①人体・肉体の行為・・・・・・・・・これは瞼の開閉や、クシャミなど、呼吸や心臓の血液循環などで、人体の維持は大叡智
                   大生命によって行われているだと思います。純粋な肉体維持のための食欲や性欲や反射
                   行動や睡眠欲や体の維持の為に起こっている欲求や行為などはこれに含まれると思います。



②カルマ運命による行為・・・誕生での最初の息をする前の、受胎形成時に、特定の肉体に入る「現在の私」の人生に
                  起こるべきプログラムとしてDNAに書き込まれている結果として起こされる行為(欲望や
                  衝動や思考や感情や想念や出会いや出来事も含まれている)。
                  才能、天才や障害児などの本人の特性も誕生する前に既に決定していると思います。
                  運命やカルマによって生まれる前に既に決定されている起こるべき出来事としての行為のこと。


③人格による行為・・・・・・・・脳を通じて形成され、環境や教育や伝統や地域による言語や想念を中心とした記憶の反応のこと。
                  条件付けられている脳により形成された記憶体からの反応・・一般的な「仮面としての私」人格
                  による、人格からの条件反応的な行動のこと。この私は複数の私であり、多くの私群が私として
                  或る状況下に於いて突然顔を出します。突然人格が入れ替わるのはこの複数の人格の私です。
                  この記憶の反応である人格による行為とは外部からのコントロールで操作されるし、投射も可能。
                  この人格の私はその行為を自分の自由意志による「私の行為」なのだと錯覚してしまっています。



④エゴによる行為・・・・・・・・或る一定の条件下や出来事を通じて顔を出すことで現在のパーソナリティーに知覚される人格の
                 私よりも更に奥深い自我性、自分のことしか考えていない根本的エゴによる行為。
                 競争心、嫉妬心、自尊心、支配欲、自己顕示欲、恐怖心、不安、焦燥、暴力、殺意、憎悪、軽蔑心
                 などなど、通常は現在の私は人格による仮面を付けて人生を生きているのだが突然の生活のあ
                 る場面、或る条件下で突如、エゴ・自我が顔を出すことで、そのエゴが現在の私によって自覚されるが
                 「人格の私」や「未発達の現在の私・現在のパーソナリティー」にはそのエゴに対抗することが難しい。


⑤未発達な現在のパーソナリティーによる行為
                 魂の私に帰一する可能性を有する「真理の種子」の私なのだが、現在の人類の「現在の私」とは
                 本能や潜在意識やエゴや人格の私と完全に同一化してしまっているので、未発達であり、内なる私、
                 コーザル体を通して永遠のパーソナリティーとの繋がりを意識することが出来ない状態にある。

                 この現在の私にとって一番必要なのは正しい思考と、正しい行為であり、それは「愛する」こと
                 であろう。
                 この正しい行為と正しい思考とは即ち「愛すること」であり、現在の私にとっては「愛」とは勿論、
                 理解しておらず、知らず、認識不可能であっても、それでも尚且つ、「愛を与え続ける」ようとす
                 ること。全ての人を、全てのことを「愛しようとすること」であろう。未知なる「愛」に身を捧げ尽くす
                 こと。ただただ「愛を与えること」。愛の中には私はないので、「愛すれば愛するほど愛は与えら
                 れる」と教えられているからだ。
                 地球人類の未熟な現在の私による思考では「与えるにはまず、その前に初めに与えられる愛が
                 なければならない、最初に愛が必要なのだ」と・・その様に「愛」を物か物質のように蓄積したり、所
                 有したりすることが出来るものだと間違って思考されてしまうのだが、実際は愛とは私のものでも
                 あなたのものでも、物質でもないので愛は与えれば与えるほど与えられるのである。
                 では愛とは何だろうか?・・それは勿論「汝の敵を愛し、汝の敵のため命を捧げること」であろう
                 その為にはあなたである自己自身、私を愛さなければならないということだろう。
                 現在の私が「私」に寄り添い、「私」の言うことにじっと耳を傾け、「私」と一緒に苦しみ悲しむことだろう 
                 私を愛さなければ愛を与えられることはない。あなたとは私であり、私はあなただからであろう。
                 愛を与え続けることによって「私」は失われていき、 「私がいないときそこに愛はある」といわれ
                 ているからである。私達現在のパーソナリティーは愛することで愛を与えられ空となることが出来る。


⑥永遠のパーソナリティーによる行為
                  これは無行為、行為から離れなさい、と言われる行為をしていない永遠のパーソナリティーの無為
                  による本当の行為であり、私を含めて地球人類の殆どの人間にとっては、想像も理解も出来ない。
                  次元の異なる非常に高次の事柄であり、自他の区別、己と万物の区別がある限りは到底無理である。
                  それなのに精神世界コーナーの人類の教師達の本を読んで、未熟にもその気になってしまい「私は行為
                  していないのだ」等と妄言を吐いて、悪行を重ねている輩を見るにつれ、悲しい思いに沈んでしまう。
                  「私は行為していない」といえるのは現在の私が永遠のパーソナリティーに帰一し合体したときのみであり
                  この無為のレベルでは思考はなく、心もなく、従って他と「分離した私」は存在していないのである。
                  現在の私がエゴに包まれ覆われている「自と他が分離していると知覚、認識される」現段階では、そのレベ
                  ルの現在の私には決してその様に言うことはまったく偽善であり、ウイルスのような害悪をばらまくことだ。
                  現在のパーソナリティーとこの永遠のパーソナリティーの私が繋がったとき私は生まれることもなく死ぬ
                  こともない現在のパーソナリティーとなることだろう。
     
⑦魂の無為・・・・・・・・・老子やシャンカラが云う無為であり、現段階の私にはこれについてはまったく分からないし、理解も想像も
               出来ない。