思考は物質である・・その事についてのある考察



思考とはあるレベルの物質であり、物質とはあるレベルの思考だということ・・について考察しました。


通常、私が考えている物質とは、物質そのものなのではないと云うこと。
その私達が考えている物質とは、単に、物質だと思われている「地球上のある概念」に他ならない
ということ。
物質とは決して死んだ物ではなくて生きているマインドなのだと云うこと。


それは丁度、私達の人体とは単なる肉体だと思われているのだが
実は「中国のツボ」の存在が朧気に示しているように、人体とは私達が考えているような物質だけ
で構成されているのではないということ。
というのも、そう言い切ることが出来る人にとっては物質だと考えられている物質の概念そのもの
が異なるからであるのではあるまいか?


人体とは、肉体と多くの複合している諸体が接合して機能している統合体なのであるといえる
①大生命、大叡智
②時間と空間、素粒子(未知なる)
③未知なる霊魂
④コーザル体(その先端部分が自我体?)
⑤サイコノエティック体
⑥エーテル複体・エネルギー諸体
⑦肉体

ざっと大雑把に見渡しても人体とはこれらの複合体として成り立っているのではあるまいか?
その肉体とは誕生し、そして成長し、老化していく身体であり、その身体に入った「肉体とは
異なる身体」が自我体と一緒に働いているからこそ人体として肉体は機能しているのであると思う。


従って肉体が生きているのは①~⑥までのことが全て揃っているからこそ生きていられるのであり、
もし肉体に生命がなく、時間と空間が与えられていなかったら生きていること自体が出来ない事だろう。


問題なのは地球上の科学を初めとした、人類の物質観が根底から間違っていると言うことなのであろう。
物質とは思考であり、思考とは物質なのであり、ただ次元とレベルが異なっているので、「条件付けられ
ている人類の未熟な脳」の知覚や認識ではそのことが知覚できないのであろうと思う。



肉体が生きていられるのは物質だけではなくて、レベルの異なる物質!?が一緒に働いているからである。

というのも、このある「限定されているレベルしか知覚認識できない感覚器官・脳」に計測できる範囲内の
物質だけではなくて、未知の科学が云うようなレベルの異なる物質の身体がこの肉体と一緒に働いている
ので肉体は維持されているということなのではあるまいか。


針灸やオーラと云った「漠然としか説明できない生命現象」として捉えられているものとは、実際には
エーテル複体といった気の流れをコントロールし生み出し支えている肉体とは別の身体が肉体と同時に
一緒に働いているからこそであり、それによって人体は支えられて人類の日常生活は成り立ってい
るのに、私達人類は肉体を単なる物質即ち「物質というある間違っている概念」でしか捉えることが
出来ないから、そのことが分からないのではないか?
肉体とは単なる物質肉体ではなくて至高の叡智が生かしているマインドの或る状態なのだ。


もし、時間と空間や未知なる素粒子が存在していなかったら肉体は存在出来るのだろうか?


もし、肉体に生命や大叡智がなかったなら肉体自体が存在出来るのだろうか?


その大叡智がなかったなら胎児が幼児となり、幼児が成長して成人になることが出来たのだろうか?

もし、エーテル複体が肉体の頭脳と、そして神経や各器官と密接に絡んでいなかったのなら、五感や知覚があることが
出来るのだろうか?

実は知覚や認識作用とは脳によるものではなくて、脳に密接に絡んでいるエーテル複体が一緒に働いてサイコノエティ
ック体へと脳で受信した思考や感情や欲望や想念を伝達しているからなのではないのだろうか?
そして今度はその未熟で未形成のサイコノエティック体から思考や感情や欲望が発生しエレメンタルとなるのだろう。

これを逆に捉えれば脳や肉体に障害があっても、そこに入って結合している自我体は脳や肉体の障害とは全く関係は
しないのである。その様な自我体は計り知れない苦労を重ねることだろうが、障害にかかわらずその肉体に結合している
自我体は魂と繋がっている尊くて可能性のある「真理の種子」なのだ。



もし、この脳にしっかりと私達の思考体や感情体が絡んで結合していなかったのなら、私たちは頭脳が受けとっている
思考や感情や欲望や記憶を私達の自我体は知覚認識することが出来なかったことであろう。



もし、肉体に自我体がしっかりと結合していなかったのならば、個人の個性や魂の表現媒体というこの神から与えられ
ている個性は発揮できなかったであろう。

もし、肉体にコーザル体が繋がっていなかったのならば、肉体そのものが成立していなかったことであろう。

もし、肉体に大叡智と大生命が繋がっていなかったのならば、私達である自我体は肉体に入ることも離れることもな
かったことであろう。

さらにもし、時間と空間が肉体に与えられていなかったら、肉体の存在自体も全くなかったことだろう。

肉体に入った私達、自我体である私は、実は、「私という観念」に包まれ覆われていても、この自我体とは
内側でコーザル体を介して霊魂と繋がっていると云われている。(私にはその体験はないのだが・・)


ここで言う霊魂とは勿論観照者のことであり、現在の私達の知覚や認識というある限られている「未熟な発達段階にある
自我体」が思っているような「自と他」に分裂しているような存在ではない。全体であり「万物に証せらる脱落身心」である
「至高の私、神聖なる私、全体と分離していない私」であることだろう。


実は、この自我体自身も人体と同じく、未知なる至高の叡智と大生命が支えておられるものであり
残念ながら私達の現状ではこの自身が脱皮しておらず未熟であり、かつまた「私という観念」によって、まったく正しく見
ることが出来ないのだけれども
実際は、これらの思考やマインドと云われている超物質(グルジェフの云う聖なる物質レベル1~)によって支えられて
いるのではないでしょうか。



私達は学校で学び、人類の文明と文化を支えている常識であるところのこの物質観とは「条件付けられている脳の機
能が生み出している知覚」を根底にして成立している限定されている概念にしか過ぎず、実際は物質とはレベル1から100
まで存在するマインドの現象なのであると思われます。


実際には物質とはマインドであり、それを物質と思考や心に分けて考えているのは未熟な条件付けられた「脳が
生み出している知覚」に基ずくある未熟な概念に過ぎないのだと思います。
その未熟な概念に私達は完全に同一化してしまっているのだと思われます。


肉体とは物質ではない。肉体とはマインドなのだ。

肉体はマインド物質であり、エーテル複体も或るマインド物質なのであり、それは即ち或るレベル・段階のマインドな
のであり私達が脱皮して新たなる知覚が発生すればそれは自ずと明らかになるのだろうと思われます。


物質も思考もある段階のマインドなのであり、きっとその脱皮した目にとっては、物質も思考も同じものであり、ある段階、
次元、状態なのであると分かるのだろうと思われます。


従って物とは物ではなくて意識がある私達と同じ存在なのでしょう。

条件付けられている脳による思考にとっては、思考とは思考であり、物質は物質ですが

その条件付けを受けていない思考には思考も物質も共にマインドであり、マインドの異なる状態に過ぎない
という事でしょう。


机や椅子もそして、樹や花や生き物も昆虫も動物も意識である私達と同じ存在なのでしょう。