私は知らない
私は「私は知らない」ということを知らない
私は「自分は知っている」と思っているが
私は「私は何も知ってはいないのだ」と云うことを知らない
私は「私は知ることが出来る」と思っているが
私は「私は知ることは出来ない」と云うことを知らない
私は「私は自分自身だ、私は私だ、私は自分を知っている」と思っているが
私は「私は私自身を知らないし、知ることはない」と云うことを知らない
私は「私には愛があり、愛することが出来る」と思っているが
私は「私がいる限り愛はない」と云うことを知らない
逆に言えば「愛があるところには私はいない」ということを知らない
私は「私は真理や真実を知ることができる」と思っているが
私は「私には真理や真実を知ることは出来ない」ということを知らない
私は「私は真理や神を理解して伝えたり教えたり出来る」と思っているが
私は「私がいる限りは真理はなく、真理は教えたり伝えたりすることは出来ない」
ということを知らない。真理とは言葉や記憶や思考や心や私ではないからだ。
私は「私が生きている」と思っているが
私は「私は生かされている」「ここに大生命が生きておられる」ということを知らない
私は「私は自己実現出来る」と思い込んでいるが
私は「私がいる限りは自己実現はできない」ということを知らない
私は「私は将来、段々と進化して良くなり開悟できる」と思っているが
私は「私がいる限りは身心脱落という開悟はない」ということを知らない
従って「私が身心脱落する」は決して身心脱落ではない、巧妙な罠だ
身心脱落は私の脱落であるからだ、身体や心は私のものと思っている私の脱落である
思考や知性、それの精華である科学は知ることが出来るし理解していると思っているが
科学は思考や知性は何も知ることは無く、科学とは戦争にしか行き着かないことを知らない
思考である私、心である私は、分離しか知らず、分離した私、分離した世界しか知らない
その分離している私は必ず闘い、競争し、恐れ、支配し、嫉妬し、必然的に戦争に行き着く
・・・・ということは「私は知らない」ということを本当に実感している状態が
正しい智慧の扉に触れているということなのかも知れない
・・・と想っている