自分を愛する




①ありのままの自分を愛そう
②ありのままの自分に感謝しよう
③ありのままの自分を礼拝し崇敬しよう
④ありのままの自分を全て受け入れよう
⑤起こること起こっていること全てをそのまま有り難く受け入れよう




以上の事が自分・自己・自我にとって非常に大切だと思う


では何故自分は自分を愛するのか?

何故ならば、自分とは通常は必ず
自分は本当は自分を憎悪し、自分とは自分のことを嫌悪しているからである。
その暴力と嫌悪、憎悪こそが自分のあるがままの姿であるからではないか
その自分のあるがままの姿を合わせ鏡の中に自分と他人に見ていることの中に
自分自我は自己に対する嫌悪と憎悪が発生している
・・というより自己とは嫌悪と憎悪そのものなのだ。
しかしながら、この事実を事実として観照している中に
丁度、雛が卵の殻を割って誕生するように、
自我の殻が割られて、新しい自己が誕生するのであろう
自分が自分自身に自己同一化しないことが大切なのではないのか
その自己同一化しないことが「愛する」事であり
たとえ本物の愛ではないにせよ自己が自己の本性である憎悪や
暴力に染まってしまっている自己を愛することは自己超克であり
重要なことなのであろう



何故自分は自分を受け入れるのか?
自分とは自我であり、思考やその記憶の反応であるのではないだろうか?
通常、自分は自分自身を対象化して、自分が自分を非難し拒絶し逃避する。
自分自身を観察者と観察される者に分割し、自己改善を図る者は自我に他
ならない
自我は自分は自我を観察している自我ではない私なのだと錯覚して自我自
身は生き残る・・
自己自我は自己を対象化する自我による似而非自己観察によって生き延び
てしまう
自我は自我である自分自身を対象化し、観察し、非難し、自己を超克しよう
する
自我は、自我が投影した真我という観念に対して同一化しようとするが
それを行っているのが自我である以上は必ず、その行為は失敗し堂々巡りの
悪循環に陥ってしまう。
自我は自分自身である自我から逃避しようとし、自己自身を非難し、拒絶する
・・しかし、それが自我である自分自身の行為であることを、見るとき
自我は自我から逃避することを中止し辞めるのではないだろうか
自我は自我を非難することを辞めるのではないだろうか
そのとき自我の殻が脱落し、本来の自己が姿を顕すと云われている
私たち自我は、自我による逃避や自分自身の非難という自我の行為に対して
同一化することなく、自分自身を受け入れ、自分自身と共にいることが自我の
自我としての正しい行為、正しい勤めであるように思われる




何故自我を礼拝し、崇敬するのか?
それは決して、自我(エゴ)が自我そのものを礼拝し、崇敬するのではなくて
礼拝とは自我が自我の本源に至らんとすることなのではないか?
自我が自我を生かしている本源を礼拝することなのではないか?
自我は必ず、自己自身を対象に投影して、他者として自己を認識しているので
自我は自分や他人を軽蔑し、尊敬せずに蔑んでいる
それは自我が軽蔑自体であり、蔑みそれ自体であるからなのであり
自我は自分自身の姿を照見したとき、そこに自我が脱皮する可能性が生じると
言われる
それ故に、
自我が自我の本性に反して自己自我を照見することの中に生じる尊敬と崇敬と
礼拝を自我が進んで行う必要が有るのではないだろうか?
この自己礼拝こそ自己が自己に同一化しない行為なのではないのか?



感謝も同じように自己自分は生かされているのだと実感し
自我は自我が生かされていることを知るとき、自ずと生じる感情が感謝なのであ
ろう、
何かをしてもらったので感謝するという交換条件や自己本位の営利行為ではなくて
ただただ、自分は生かされて、肉体に入って、このように神の宮である肉体や脳を
使用させていただいているという事実に対して、自然と感謝が沸き起こってくるの
ではないだろうか


私達は至高の霊魂と繋がっているのだが眠った様な状態のままで
肉体に入って「種々の条件付けられている脳」と繋がっている。
この脳と身体に起こっている出来事や思考やその記憶の反応
そして肉体及び肉体に起こっている行為と完全に一体化してしまい
脳の記憶が起こしている想念や欲望や情動、衝動を自分が
起こしていると錯覚し、記憶の反応の私を自分だと錯覚している。


現在の私は
起こっている行為や出来事・・それらから逃避しようとして、足掻き
、恐れ、悲しみ、苦しみ、絶望し、それらに反応して思考し、行為す
ることでエレメンタルを生み出し続けている。

この
起こっていることと同一化してしまっている現在の私自身を、そして
その起こっている出来事や思考・行為・私を、沈黙の静寂の中で
非難や逃避なくあるがままに見ることが肝要なのだろう。
現在の私はロボットの操縦席に夢を見ている状態で座っている操縦者
の様である。

このこれらの起こっている出来事、行為、思考、想念や欲望、また
その記憶である私(人格)を感謝して受け入れること、同一化しないで
あるがままに見ること。


さらにその脳の記憶である人格の私を見ている現在の私という自分
自身をもあるがままに見ること
これが肉体に入った現在の私の正しい思考と行為なのではないか