光は闇を顕わにする
今日思ったこと・・・逆説的思考で考えてみた(以下の内容は自分のレベルではありません)
闇を闇と知るには光が必要である
光がなければ闇は知られない
闇を闇と見ていることの中に光がある
虚偽を虚偽と見ていることの中に真理は在る
思考を、心を、そして私を見ていることの中に叡智は訪れるのだろう
光があるからこそ闇は知覚される
知覚するには光が必要である、闇の知覚とは光があることを示している
自分は本当には見ておらず、私は本当には見ることが出来ないということ、
私がいる限りは真実を見ることは出来ないということを知る、ということは、
「目」があることを暗示している
もしその「目」が潜在的に存在していなければ、「自分は見ていない」という
ことは自覚されないからである
無知を無知と知ることには明知が必要である
無知を無知と見ていることの中には明知があるのだということを示している
思考や心そのものを見ることとは至難の業であり、もし本当に見ているのなら
そこには思考や心の根源がそっと姿を顕しているのかも知れない
虚偽を虚偽と知るには真実の知覚の存在が暗示されている
虚偽を虚偽と見ていることの中には真実の前存在がある
現象を現象だと知るには実相が必要である
実相の前知覚がなければ現象を現象だと知ることは出来ない
「現象を現象だ」という知覚は実相がしている
この知覚されている世界は現象であることの知覚とは実相が支えているので
あって、実相が起こしているのであろう
それゆえに、この「分離している私」が知覚している世界とは実相ではなくて
現象であることを本当に実感している人は開悟し開眼している
「私は世界とは異なっていて、私は世界ではない」ことを実感している人の目は閉じられている
「私は世界である」と実感している人は開眼している
愛ではないことを知るには愛が必要である
これは「愛ではない」ということを知るには愛の存在が必要条件である
「私は愛ではない」ということを知るには「愛には私は含まれていない」という
ことを知らねばならない
地獄を地獄と知るのは天国があるからである
悪を悪と知るには善がなければならない
夢の中で「自分は夢を見ているのだ」と自覚している人は目覚めている
この人生の中で目覚めている人は夢の中でも目覚めている
私は悪人であると知る人は善人である
私は善人であるとそう思っている人は悪人以下である
自分には愛が無いことを知る人には愛の訪れが期待される
本当に愛があるひとは、「自分が人々を愛していること」を知ることはないだろう
愛と私は共存できないからである
私がいる限りは愛はなく、私がいないときそこに愛はある
愛の中には私はなく、「愛している私」という他と分離している自己の意識はないことだろう
愛の中には私はいないので「私は愛している」という知覚と認識は存在していない事だろう
従って愛があるところには「私」もなく、「愛している私」はいない
自分は愛しているのだ、とそう思う人は「自分には愛が無いこと」を知る人に遠く及ばない
自分は知らないということを知っている人は叡智の人であることだろう、叡智が顕現している
自分は知っていると思っている人は、自分とは無知であることを知らない
自分は悟ったと思っている人は、自分は無知であることを知らない
悟りの中、叡智の中、愛の中には私はいないからである
・・・・と思考した