帰依



「私は全託し、帰依いたします」といっているこの私とは、果たして誰なのであろうか?

それは正確に言えば

私とは帰依したいのだが、現在は帰依していないので、帰依することを発心したと

言うことであろうか?


実は帰依しようとしているこの私とは帰依していないし、帰依することのない私なのではないのか?


この帰依しようとしているこの私、それは帰依を知らないのであり、それ故にどの神に帰依する

のか、等と思考し心配している私、・・


・・即ち「無知の自我の私」、「条件付けられている脳で受信した思考の記憶の反応の私」であり、

その思考の記憶の反応と一体化した未形成のサイコノエティック体である現在のパーソナリテ

ィーの私なのであろう。


何故なら既に帰依している永遠のパーソナリティーであるのなら、帰依しようとは発心しないか

らであろうか



では何故この私が帰依しようと発心したのか?

それは帰依することで私が根源に同一化することによって私は延命しようとしているのではないか?

それは丁度、私が神と一体になることで、私は自己拡張や自己実現という私の欲望を実現し

自己拡大を叶えようとしているのではないか?それは畢竟、自我の動きなのではないのか?



真理を知ろうとし、知覚しようとして懸命に学んでいる者は、決して真理を知ることは出来ないだろう。

真理を知ろうとしている私とは、真理を知ることはできない「私・思考」であることを知ったとき、その様

な自己拡大の欲望に翻弄されないだろう、「私は真理を知ることはない」ことを自覚することだろう。

「私は決してリアリティーを知ることはない」ということを知ることだろう。


真我を実現し、神と一つになろうとしている私とは、決して真我ではなく、私達の内奥にある神と繋が

っている永遠のパーソナリティーの私ではない未形成の私であることだろう。


この真我を実現しようとして努力している私とは「無知である自我」であることを知覚したとき、

その真我実現の願望は実は「自己と言う無知」による自我拡張の欲望に過ぎなかったことを知って、

この真我実現の願望という自我の欲望から自我自身が離れるのではないか?


ミルダッドによれば神の子の私は「多くの私というヴェール」によって覆われ包まれているという。


「なろう」とすること、「至ろう」とすること、「利用しよう」とすること、「知ろう」とすることはどの私が

起こしているのだろうか?・・・それは明白に「自我・無知・無明」の私であることだろう。



しかしながら、この現在の私自身である「自我・無知・無明の私」でさえもが、実は根源によって生か

され、養われており、この「自我・無知・無明」の自分で生きているのではない。


肉体や脳や万物が神によって生かされ、養われているように、この「自我・無知・無明」の私も

同じように生かされ、養われている。


それ故にこの「自我・無知・無明」の私は改めて、私は生かされ、養われ、成長させていただ

いていることに感謝し、帰依していないが故に

帰依しようとすること(身心脱落)がこの「自我・無知・無明」の自分にとって正しい道であるよ

うに思われる。


・・・と自分の身の丈を知らずにその様に思考したが、あなたはどう思われるのか?